3人が本棚に入れています
本棚に追加
丘を降りた俺は急いで駅前まで戻り、前日以上の勢いで、観光案内所へ飛び込んだ。
中にいたのは、前日とは別人。気さくな田舎のおばさんといった感じの中年女性だった。
「すいません。昨日の人に紹介された温泉宿が……」
「はあ? 何の話でしょうか……?」
俺の言葉を途中で遮り、彼女は怪訝な顔をする。
「ええっと、昨日の夕方にここを訪れて、その時いた担当の人に、温泉宿の一つを教えてもらって……」
食事も温泉も問題なかったけれど、夜中におかしな子供が現れたこと。目が覚めたら神社の跡地に放り出されていたこと。
そこまで説明したところで、再び話を遮られた。
「ちょっと待って。そもそも、その『担当の人』って、いったい誰のこと? ここに詰めてるのは、いつもあたしだけですよ」
俺が訪れたのは午後六時過ぎ。そこが大きなポイントだったらしい。
この観光案内所が開いているのは夕方五時までであり、昨日も彼女は定刻ちょうどに、きちんとドアを施錠して帰ったと主張するのだから。
「え? え? じゃあ昨日、俺が会ったのは……」
「狐か狸にでも化かされたんじゃないですかねえ。お客さん、何か盗られてませんかい?」
肩をすくめながら言う様子を見れば、他愛ない軽口なのは俺にもわかる。
こちらは真剣なのにそんな態度をされると、少しムッとしてしまうが……。ここで怒るのも大人気ない。そう思って、冗談には冗談で返すことにした。
「この辺りの動物って、追い剥ぎみたいな真似するんですか?」
「バカ言っちゃいけません。人を化かすような狐や狸は、もはや獣でなく妖しの類いだし、妖しなら人間の金品は必要としない。彼らが盗るのは、命か寿命に決まってますよ」
その後。
あの温泉地を訪れる機会は二度となく、別の場所で幽霊や妖怪っぽいものに出くわすこともなかった。
あんな不思議な体験は、俺の人生において、あれ一度きり。結局あれが何だったのかも不明のままだ。
でもとりあえず、こうして俺は、五十代の今もピンピンしているのだから……。もしも案内所のおばさんの言う通り、狐や狸の化け物に寿命を盗られたのだとしても、その盗られた分はごくわずか。人生には影響しない程度だったに違いない。
(「駅前の案内所にて紹介された温泉宿は」完)
最初のコメントを投稿しよう!