鯛おとこ

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     既に今では()くなったが、この近くにも昔は漁港があった。当時からよく鯛が水揚げされていたらしく、その男も鯛の刺身が大好物だったという。  その夜も男は突然、鯛の刺身を食べたくなった。でも行きつけの料理屋は既に閉まっている時間だから「そうだ、魚市場へ行ってみよう」と思い立ち、そちらへ向かった。  港に隣接した魚市場だ。しかしほら、魚市場だって普通、賑わっているのは早朝だろう? 男が着いた時には、当然のように閑散としていた。  魚の入ったケースや台やらが所狭しと並べられている……というのが見慣れた風景なのに、剥き出しのコンクリートの地面が広がっている。車のいない駐車場みたいな有様(ありさま)だった。  それでも諦めきれずに、(はし)から(はし)まで見回してみると……。  市場の片隅に一軒だけ、開いている店があった。  喜び勇んで駆け寄れば、裸電球ひとつのぼんやりした照明の下、横長の発泡スチールに入っているのは、60センチ程度の真鯛ばかり。どれも鮮やかな赤色で、見るからに美味しそうだ。 「おい、おやじさん。この鯛を一匹……」  早速購入するつもりで話しかけると、店の主人が男の声に反応して、一歩前へ。それまで影になっていた姿が、ちょうど電球の光に照らされて、見えるようになり……。  魚屋の顔を目にした途端、男は驚いてしまう。それは人間のものではなく、魚そのもの。店先に売られているのと同じ、赤い真鯛だったのだから! 「ぎゃっ!」  一声叫ぶと、目当ての鯛を買うのも諦めて、男は夢中で逃げ出したという。いくら鯛好きな男とはいえ、化け物がやっている店で買うのは、気持ち悪かったようだ。  魚市場を出て、海沿いの通りを数分走ると、おでん屋の屋台が視界に入る。  ちょいと一杯……なんて気分には程遠(ほどとお)いけれど、とりあえず一息つこう。それに漁港のおでん屋ならば、練り物に使われている魚も上質のはず。  そんなことを考えて、男は屋台に飛び込んだ。 「おい、おやじさん。練り物を二つか三つ、それと水を一杯くれ」 「へいへい。どうしました、そんなに慌てて」 「いや、さっき魚市場で魚の化け物に遭遇して……」 「魚の化け物? それって……」  おでんの仕込みやら何やらで下を向いていた店主が、ここで顔を上げる。 「……こんな顔ですかい?」 「いや、微妙に違う!」  びっくり仰天しながらも、反射的に男の口から飛び出したのは、否定の言葉だった。  おでん屋の主人の顔は、確かに人間というよりも魚だったが……。真鯛と比べれば少し褐色がかった赤色に、ぎょろりと大きな目や、角ばった頭。それは真鯛ではなく、甘鯛の特徴だったのだ。  ただし真鯛にしろ甘鯛にしろ、気持ち悪いことに違いはない。  注文したおでんを店主が用意するより早く、男は屋台を飛び出した。  こうなったらもう、今夜はおとなしく家で寝よう。  そう思って帰路についたのだが……。  途中、ジョギング中の青年とすれ違う。フード付きのパーカーで頭まですっぽり覆いながら走っているのは、減量中のボクサーか何かだろうか。  ボクサーならば腕っぷしには自信もあるだろうし、いっそのこと化け物退治を頼んでみようか?  ちらっとそんなことも考えて、すれ違いざま「すいません、ちょっと……」と声をかけてみる。その際、相手の顔を覗き込む格好になったのだが……。  またまた男は驚いた。  なんとボクサー青年も魚顔だったのだ。  真鯛よりも少し前に突き出た顔立ちで、色は真鯛や甘鯛の赤系統とは大きく異なり、黒光りしている。  今度は黒鯛だ!    
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