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気が付くと、そこは電車の中ではなく神社の境内のようだった。
私が倒れている繁みから少し離れた所に屋台の明かりが灯り、群れを成している人々の喧騒が聞こえる。
縁日だ。縁日をやっている。
私はさっきの漫画の台詞を思い出し、自分が架空の世界に入り込んでしまったような、奇妙な錯覚を覚えた。
大体が、何故いきなりこんな所にいるのだ?私は原稿を持って電車に乗った筈なのに。
「そうだ、原稿は!?」
ハッとして私は辺りを見回した。
…良かった。あった。
雑誌名の入った大きな茶封筒を自分の傍らに見つけて、私は心底ホッとした。
今は事の経緯を推測している場合ではない。一刻も早く社に戻らなければ。
私はまだ幾らかふらつく身体を起こし、とにかく今いる場所を確認して最寄りの駅まで行こうと人波に向かって歩き出した。
と、一人の少年の姿が視界の端に映った。
私が倒れていた繁みの斜め後ろの木の根元に、その少年は何かを投げつけていた。
バシャッ、バシャッ。
音を立てて、その丸い柔軟な物体は少年の手から投げ出され、結び付けられたゴムの力によって再び少年の手に戻っていった。
そうして、何度か固い木の幹から、その柔軟さでもって身を守っていたが、やがて微かな悲鳴をあげて呆気なく砕けた。
内包されていた水は外殻のゴムと共に砕け散り、僅かな肉片と水滴だけが、結わえ付けられたゴム糸を通して少年の手に留まっていた。
「せっかくのヨーヨーが台無しじゃないか」
俯いて砕けたヨーヨーを見つめている少年の卑屈な目に、私は声を掛けずにはいられなかった。
少年が子供の頃の私と、どこか似ているような気がしたからだろうか。
「家の人は?はぐれちゃったのかい?まさか、一人で来た訳じゃないだろう?」
少年はキッと私を睨みつけていたが、次の瞬間には怒ったように踵を返し、人混みの中に紛れ込んでしまった。
「やれやれ…」
私は少年に話し掛けたことを後悔した。
あの手の子供には何を言っても無駄なんだ。分かってる筈じゃないか。自分が昔そうだったんだから。
私は幼少期からの事を思い出した。
忙しい両親に構ってもらえず、いつも一人ぼっちだった事。
元来内気で臆病だったので、友達らしい友達も出来なかった事。
勉強だけは出来たのでなんとか今の会社に潜り込むことが出来たが、漫画編集という不本意な部署に回されてしまった事。
見合いでなんとなく結婚したが、仕事の都合上妻とも子供とも殆ど顔を合わせる事がなく、だがそれで却って自分がホッとしている事―。
そう、私は内心では子供に構ってやれない事を気に病み乍らも、一方では構ってやれない正当な理由がある事に安堵していた。
私は人間が、特に肉親とか友人とか、そういうものが苦手なのだ。
仕事上の儀礼的な付き合いならともかく、そういう一切の枠を取り払った人間関係というのは、はっきり言って苦痛だった。
”家族なんて、やっぱり持つべきじゃなかったんだ”
妻は控え目で感じが良かったし周りに勧められるまま結婚に踏み切ってしまったが、やはり私は家庭向きではなかったと今更乍ら悔やまれる。
これじゃ、妻や子供が可哀想だ。
”俺と結婚していなければ、あいつも健一も、もっと幸せだったかもしれない”
心の中で呟き乍ら私は人混みを掻き分け、神社の外へ出ようとした。
すると鳥居を潜ろうとしたその時、誰かが後ろからシャツの裾を引っ張るのが分かった。
さっきの、ヨーヨーを割っていた子供だった。
「…金魚掬い」
「え?」
「金魚掬い、やろうよ」
面喰らっている私に、仏頂面でその少年は言った。
私は先程の肩すかしを喰らった時のような虚しさと、片手に抱えた原稿を思って素っ気なく言った。
「悪いけど、今急いでるんだよ」
私の答えに、あからさあからさまに少年はムッとして、
「なんだよ、自分から話し掛けてきたくせに」
と悪態をついた。
「いいよ、もう頼まねーよ。せっかく人が遊んでやろうと思ったのによ」
遊んでやろうだと?
なんたる口の悪さだ。前言撤回。
自分に似ていると思ったが、私はこんなに口の悪い子供じゃなかった。こんなに横柄で生意気でもなかった。
怒ったように口をへの字に曲げたまま背を向けた少年を、私は別段止める気はなかった。
が、何故かその時、少年を引き止めなかったかわりに私の足は私の意思に反して少年の後を追い、人波の中をゆっくりと、出口とは逆の方向に歩き出していた。
「なんでついて来るんだよ」
私の気配を感じた少年が、相も変わらず怒ったような口調で言う。
私は言葉に窮した。
なんで?と言われても、私にも分からないのだ。
この忙しい最中、いつもだったら何はさておき社に戻る筈の私が、何故見知らぬ子供一人に時間を割いているのか。
何故後ろ髪を引かれるような思いで、少年の後ろを歩いているのか。
「ヨーヨー…」
暫くの沈黙の後、呟くように言った私に少年は怪訝な顔をした。
「ヨーヨー釣り、やろうか」
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