子供の頃の話をしよう

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「なんでヨーヨーなんだよ」 そう言って不貞腐れている少年を宥めるようにテキ屋の青年が促す。 「ほい、ジャンケンポンッ」 青年がパ―、少年はグーを出した。 「はい、君の負けだからヨーヨー1個ね。どれでも好きなの取っていいよ」 テキ屋の青年が言う。 ヨーヨーの入った水槽には『ジャンケンヨーヨー、勝ったら2個、負けたら1個』と書かれた札が立て掛けてある。 ヨーヨー釣りというのは、昔からこういう仕組みだっただろうか。縁日に行った記憶の無い私には曖昧だった。 少年は色とりどりの水風船を物色するでもなくじっと見つめていたが、やがてまた怒ったように 「いらないよ、こんなもんっ」 と吐き捨てるように言って歩き出してしまった。 私は偶然にもジャンケンに勝って二つ手に入れることができたヨーヨーを片手にぶら下げ、少年の後をついて行った。 「やっぱり金魚掬いのほうがいいっ」 金魚掬いの前で少年は老人に金を渡すと、薄い紙を貼っただけの如何にも頼り無げな網を受け取り、器用な手付きで金魚を掬い始めた。 一匹、二匹、三匹…。薄い皮膜の上で面白いように金魚が運ばれてゆく。 「…上手いじゃないか」 スイスイと金魚を追っている少年の手を見乍ら、私は何かを思い出しかけていた。 前にもこんな光景を見た事があるような……。 感心している私に少年は一瞬だけ得意気な表情を浮かべたが、それもほんの束の間の事で、すぐに元の仏頂面に戻ってしまった。 そして、掬い上げた金魚の入ったビニール袋をほんの少し眺めただけで、少年は乱暴にそれを水の中に戻してしまった。 あっという間だった。 逆様になったビニール袋から元いた水槽の中へ、伸びやかに金魚達は泳いでいった。 私も老人も呆気に取られて、すぐには物を言う事も出来なかった。 少年は黙ったまま歩き出した。 人混みを擦り抜け、今来た道を出口のほうへと戻っていった。 「なんであんな事したんだい?せっかく掬ったのに」 行き交う人にぶつかりそうになり乍ら、やっとのことで私は少年に話し掛けた。 「さっきも、ヨーヨーをわざと木にぶつけて割ってただろ?なんであんな事するんだい?」 尚も問い詰める私に、少年は歩を止めた。 「金魚なんか、欲しくないもんっ」 俯いたままブツリと答えた。 「金魚もヨーヨーも欲しくないっ。お祭りなんか全然面白くないっ」 「じゃぁ何が欲しいんだい?何をすれば君は面白いのかな?」 立ち止まったまま、人波の中でそこだけ流れを止めてしまっている少年の背後に立ち私は尋ねた。 手には中年男の私には似つかわしくないカラフルなヨーヨーがぶら下がっている。 『一体何が欲しいのか?』 それはまるで、自分自身に向けられたかのような言葉だった。 私はいつも何かに飢えていた。何かを欲していた。 だが、それが何であるかは分からなかった。 いや、もしかしたら欲しい物など無いのかもしれない。或いはあり過ぎるのかもしれない。 私は常に飢えていて、それが当たり前になっていて、自分が空腹であることすら気付かなくなっているのかもしれない。 飢えている自覚が無ければ、何かを強く欲する事などないのだ。 ただ目の前に出された物を受け取る。それだけの事。 第一、望んでも一番欲しい物が手に入らない事は、子供の頃からよく知っている。 そう、私は何も望んでなどいない。何も―。 と、その時、私の思考を中断するかのように少年が小さく叫んだ。 「―父ちゃん…っ」 通り過ぎてゆく人の群れに、少年は目を凝らしていた。 だが流れは止まる事無く、前方に向かって緩やかに突き進んでゆく。 反対側で後方へと流れてゆく人波に押され乍ら、少年は立ち止まったまま、出口へと向かう一点を見逃すまいと必死に目で追っている。 「父ちゃんっ、父ちゃんっっ」 少年は開いてしまった距離を埋め合わせるように、もう一度大きな声で呼び掛けた。 その声は私の胸をきつく締めつけた。 私は、こんなふうに痛切な響きをもって父を呼んだ事はない。 だが何故かその時、私の胸の奥でずっと片隅に追いやっていた何かが、少年の声に共鳴するのを感じた。 少年が何を欲しているのか、分かってしまった。 そして自分が、ずっと何も望んでいないと思い乍ら、実は少年と同じものをずっと待ち続けていた事を。 何度目かに少年が呼び掛けた時、その声にやっと気付いたかのように、その人物は振り向いた。 「…シンイチ?」 人混みの中に少年の姿を見つけたらしいその男が呟いた言葉に、私は一瞬動揺した。 シンイチというのは私の父の名前でもある。 ごくありふれた名前で、たまたまこの少年が同じだからといって別に不思議な事もないのだが、それでも私の心に立った波を私は暫くの間鎮めることができなかった。 「シンイチ?どうしたんだ?一人で来たのか?お母さんは?」 近寄って来て矢継ぎ早に尋ねる男に少年は何も答えなかった。 何をどう答えたらいいか分からない、というふうだった。 目にはうっすらと光る物が滲み出て、少年は泣き出しそうになるのを必死に堪えているようだった。 「お母さんはどうした?また仕事なのか?お婆ちゃんは?お婆ちゃんには、ちゃんと言って来たのか?」 屈み込んで少年の顔を覗き込んでいる男に、少年はやっとのことで何か言葉を搾り出そうとした。 が、その言葉は少年の口から発せられる事は無く、夏の夜風に攫われてしまった。 半ば口を開きかけたまま顔を上げた少年の目に、男とは別の、もう一人の人物が映っていた。若い女だった。 少年が”父ちゃん”と呼ぶその男とは一回り程も年が違うのだろうか。 その浴衣姿の女は男の背後の少し離れた位置で、困ったような、身の置き所のないような表情を浮かべていた。 少年の顔が僅かに歪んだ。 そして女が一歩こちらに足を踏み出した途端、少年は二人に背を向け闇雲に走り出した。 「シンイチっ」 男の声を振り払うように少年は走った。行き交う人にぶつかり乍ら、逃げるように。 『父ちゃんのバカヤローっ、父ちゃんのバカヤローっ、父ちゃんのバカヤローっっ』 私にはその背中が、大声でそう叫んでいるような気がした。
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