0人が本棚に入れています
本棚に追加
人混みから外れた暗がりの中で、少年は小刻みに肩を震わせて立っていた。
最初に少年を見掛けた場所だった。
地面には少年の割ったヨーヨーの残骸が、まだ無残な姿を晒している。
少年は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
だが、おおよその事は見当がついた。
少年の父親と母親は、つまり離婚したのだろう。
そして父親は、少年の父親というよりは、寧ろさっきの女のものになってしまったのだろう。
シンイチという、父と同じ名前を持つ少年を前に、私は父の事を思っていた。
金魚掬いをしている少年の手に感じた既視感―私の父の記憶だった。
私はすっかり忘れていたが、父は一度だけ、私がうんと小さい頃に縁日に連れて来てくれた事があったのだ。
忘れていた筈なのに今でははっきりと思い出せる。
無口で滅多に口を利かなかった父が、なんの気紛れか私を連れ出し、終始無言で怒ったように金魚を掬っていた事を。
金魚の入った袋を黙って私に差し出し、この手に握らせた事を。
私はあの時怒っているような父を見て、自分は父に嫌われているのだと思ったが、もしかしたら父は自分に対して腹を立てていたのかもしれない。
人と上手く話す事のできない自分を。
気持ちを上手く伝えられないもどかしさを。
私が我が子を構ってやれない事を気に病み乍ら一方ではホッとしていたように、父もまた子供の私から見たら冷たい父親に見えたが、内心では自責の念に苛まれていたのかもしれない。
父は冷たかったのではなく、ただ不器用だったのだ。
子供の私をどう扱ったらいいか分からなかったのだ。
多分、恐らくは―。
気が付くと私は原稿を抱えていないほうの手を伸ばして、少年にヨーヨーを差し出していた。
「やるよ」
乱暴に涙を拭い乍ら少年は、
「いらないよ、人が取ったのなんか」
と精一杯強がっていたが、私は強引に彼の手に風船玉を2つとも握らせた。
「いらないって、言ってんだろっ…」
言い乍らも、少年の声は最後は頼りなく消えていった。
私に無理矢理握らされたヨーヨーを所在無さげにぶら下げたまま、またこちらに背を向けてしまう。
「家にお婆ちゃん、いるんだろ?一つはお婆ちゃんにやるといい」
そう…父親がいなくても、この子にはお婆ちゃんがいる。母親もいる。
そして私にも―。
そんな事を考え乍ら、ふと気付くと私は少年の頭を撫でていた。
それは”撫でる”というよりは触っただけ、という素っ気ないものだったが、それでも少年を振り向かせるだけの力はあったようだ。
少年はじっと私の顔を見ていたが、多分私は気恥ずかしそうな顔をしていたのだろう。
目を逸らすと、少年はやっと重い口を開いてくれた。
「婆ちゃんと…もう一つは母ちゃんにやる」
その口調からは、さっきまでのいじけた雰囲気は消えていた。
ただ子供らしい、素直な照れ臭さだけがあった。
「もう家に帰りな。お婆ちゃん、心配してるだろ。お母さんも仕事から帰って来てるんじゃないのか?」
そう私が言いかけた時、どこか遠くからシンイチを呼ぶ声がした。
「婆ちゃんと母ちゃんだっ」
そう叫ぶと、少年は声を頼りに駆け出した。
途中振り向いて私に手を振った。
そしてそのまま、彼はまた明るい祭りの喧騒の中に吸い込まれていった。
あの子は大丈夫。あの子を愛してくれる家族がいるのだから。
私は腕の中の原稿の事を思い出し、社に戻ろうと慌てて出口へと歩き神社の鳥居を潜った。
が、外へ出た瞬間、私はまた激しい眩暈に襲われた。
目の中で風景が螺旋を描いてゆく。
去って行った少年の後ろ姿が、金魚を掬っていた手が重なる。そして、いつか見た父の大きな手が…―。
やがて、夜の空気よりも重たい闇の中へ、私は引き込まれるように沈んでいった。
最初のコメントを投稿しよう!