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「お父さんっ、お父さんてばっ」
頭の下からいきなり何かを差し抜かれて、私はカクッと頭を畳に打ち付けた。
目が覚めてみると、目の前に息子の健一が仁王立ちになっている。
「寝るんだったら自分の部屋で寝なよ。枕だってちゃんとあるんだし」
手には、今私の頭の下から抜き取った漫画雑誌が握られている。
どうやら私は居眠りしていたようだ。
では、さっきの少年の事は全部夢だったんだろうか?
その前に原稿取りに行った事も、電車の中で倒れた事も―?
どこからが夢でどこまでが現実だったのか釈然としないまま、私は寝起きのボーっとした頭で考えていた。
もしかすると、あの少年は親父だったのかもしれないと。
ずっと疎遠になっていたし、一緒に暮らしていた頃も会話らしい会話を交わした事はなかったが、確か父の両親も早くに離婚したという話を母からちらっと聞いた事がある。
シンイチという、父と同じ名を持つあの少年は、父その人ではなかったのか。
そんな事を考え乍ら私が尚もボーっとしていると、立ったまま私の様子を窺っていた息子が一瞬口を尖らせて、ふいと背中を向けた。
漫画雑誌を手に部屋を出て行きかけた時、戸口の所で立ち止まって独り言のように呟いた。
「僕、大きくなったら漫画家になろうかな…」
「え?」
思いもかけない言葉に、私は耳を疑った。
「だってお父さん、いつも仕事で家にいないし…」
漫画家になったらお父さん一人占めにしてやるんだ、とかなんとか、口の中でごにょごにょ、いじけたように呟いている我が子を見て、私は胸が切なくなった。
すっかり余所のおじさんになってしまっているものと思っていたが、私はどうやら、まだ父親の地位を失墜してはいないようだ。
俄かに、今迄に感じたことのない愛しさが、この小さな一人の人間に対して湧き上がってくるのを感じた。
健一が漫画家で、私がその担当編集者。
なにやら気恥ずかしい気がするが、それも悪くない。そんな気がする。
「今日は日曜日か…」
時計の針は十二時を少し回ったところ。
表は真昼の眩しい太陽が照り付けているが湿気はそれ程ではなく、窓からは時折り秋の匂いのする心地いい風が入ってくる。
「お父さーん、ケンちゃーん、お昼ご飯よーっ」
台所から、私と息子を呼ぶ妻の声が聞こえる。
「…ご飯食べ終わったら、みんなでどこかへ遊びに行くか?」
私はいつになく軽いさっぱりした気分で、そんな事を言っていた。
息子は初め、疑わしい目付きで私を見つめ逡巡していたが、それもすぐに子供特有の無邪気な笑顔に変わった。
「お母さーん。お父さんがご飯食べ終わったら、どこか連れてってくれるってーっ」
息子の後について台所へ続く短い廊下を歩き乍ら、私はこんな事を思っていた。
”久し振りに、親父の所へ行ってみようか…”
すっかり疎遠になっていた父に会おうなんて、どういう風の吹き回しだろう。
自分でも不思議に思い乍ら。
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