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太田猛が薄暗いバーのカウンターで、蛇のような小さな目で隣の越中正巳に話し掛けた。
「郡上は気に食わない。あいつがアメリカから帰ってきたら即、お払い箱にしてやる」
「しかし、そう上手く行くでしょうか?」
「心配ない。郡上がアメリカに視察旅行に行っている間に俺が渡辺部長に話を付ける」
太田は氷が解けかけたスコッチを飲み干した。
「郡上を辞めさせたら、お前を課長にしてやる」
「ということは、太田さんは部長になられるんですね?」
コンサルティング課長の太田猛から言われたその一言で、越中の気持ちは決まった。太田はカウンターの端のレジで領収書を受け取ると大切に財布に仕舞った。ケチでえげつない性格の太田は部下と飲みにいっても明日、取引先との飲食代として経費としてしっかり会社に請求するつもりだ。
郡上耕平は昨年、中小企業診断士の資格を取得して、幸運にも新設の政府系コンサルタント会社に採用された。
会社は千代田区の財閥系ビルの四階にある。会社は半官半民で資本金はコンサルタント会社としては破格の十二億円、社員三十人、役員は関係各省庁や政府系金融機関からの天下りである。会社の主な業務は日本各地でショッピングセンターや商店街などの商業集積を企画、開発することで、国策会社でありながら街づくり支援会社である。
耕平が属するコンサルティング課は正規社員が太田と耕平と越中、それ以外に出資元の出向社員が三人いる。新会社設立と同時に中途採用されたのが越中と耕平だった。耕平はこの時三十二歳で、二十八歳の越中より四歳も年上だった。
会社設立パーティは都内一流ホテルの宴会場で行われた。出席者は業界関係者数百名。来賓として経産省から事務次官、局長、キャリアといわれる官僚たち、また出資元の大手量販店や百貨店など流通業界の役員も多数出席し、会社の前途洋々たる船出を思わせた。耕平は途中でスピーチを依頼するため、式の始まりからずっと事務次官に付いていた。
耕平は今、自分がこんな華やかな世界にいることが不思議でならなかった。まるで夢を見ているようだった。数年前までは食品会社で営業車に乗り、神奈川県内を駆け巡っていた。耕平は苦労して中小企業診断士の資格を取得してよかったと思った。
二十人も入れば息苦しくなってしまう狭い会議室には重苦しい空気が流れていた。
「少ない人員で業務効率を上げるためには調査と基本構想は分けるべきじゃないでしょうか? 大手量販店だって採算が取れると思うから出店するんです。いくら法律が後押ししてくれるからといっても商業集積推進法だけじゃ、キーテナントは誘致できませんよ」
耕平の主張に対して反論できる者は誰一人いなかった。
耕平は確固たる考えもなく、ロクな意見もな言えない官庁の天下りの役員たちを内心で軽蔑していた。耕平はさらに畳み掛けた。
「それから、高度化事業計画書の作成は地元のコンサルタントに任せましょう。本来、東京に会社があるウチがやるべき仕事じゃないと思います」
太田は耕平の的確な指摘を苦々しい思いで聞いていた。
会議室を出ると総務課の福田真知子がデスクでワープロを叩きながら、耕平に「会議、お疲れさま」と声を掛けた。
時代は既に九十年代に入ったが、社会にパソコンはまだ普及していなかった。真知子は若い頃、官庁で働いていたキャリアウーマンだが四十八歳の今まで独身だ。真知子は控えめな性格で年齢の割には美しさを保っている。独身でいる訳を知る由もないが、噂では若い頃には何人もの官僚から求愛されたという。
耕平は自席に戻り、会議で中断していた仕事を再開した。経産省経由の紐付きで市町村から受注した基本調査は一人で手掛けるには骨が折れる仕事だった。耕平が仕事をしているのを尻目に太田は今日も定時で帰るらしい。太田の手掛ける案件はすべて丸投げで、外注先に委託している。一方、部下の耕平には外注を使わせなかった。明らかに耕平への嫌がらせだった。
「お先に失礼します」
消え入りそうな声で太田は背を丸めながら退社していった。貧相な体格が一層卑屈に見える。これから終電間際まで残業が続くと思うと憂鬱になった。耕平は最近、出張と残業が続いてロクに睡眠を取っていなかった。越中が太田と一緒に担当している案件は外注を使っているので基本、下請けから出てくる調査報告書を眺めて批評しているだけで済むからラクなものだった。
やがて、越中も無言で退社していった。耕平はこんな状態が続けば仕事で殺されるかもしれないと思った。無理な仕事を押し付けて辞めさせるのもいじめの一つ手段だ。
太田は根が怠慢で小心だが、無慈悲で冷酷な性格だ。今後、ありとあらゆる手段を使って耕平を追い詰めていくつもりだった。
あくまで耕平が噂で聞いた話だが、越中はアメリカの聞いたこともない無名なカレッジを卒業しているらしい。日本で外資系企業に就職したものの、上司と反りが合わず、わずか半年で会社を辞めた。その後、家でプラプラしながら親の勧めで宅建の資格を取った。その後、越中は中小企業診断士を目指して一回で試験に合格した。
ただ、一回と言えば聞こえはよいが、実際は父親の経営する不動産会社に席だけ置いて無職で試験勉強に専念して合格しただけの話である。
耕平は仕事を続けながら苦労して三度目の挑戦で合格した。採用当時宅建の資格も取得をしていた越中は入社早々、太田に目を掛けられた。一方、耕平は太田に目を付けられた。太田は耕平を今後、自分の足を引っ張りかねない危険人物と考えていた。
「越中はできるが郡上は使えない」という噂は太田が社内で積極的に広めた。太田は経産省の外郭団体から転籍で新会社に来たが、実務経験はほぼゼロに等しい。無能なうえに怠け者の太田は最初から越中を目を掛けた。太田は越中は煽てて手懐ければ自分の思い通りになると考えていた。
越中の父親は一代で不動産管理会社を起こし成功した。成金で家は田園調布にある。自宅は数百坪の敷地に高級外車を何台かを所持し、近所に大物芸能人やスポーツ選手も多数住んでいると以前、吹聴していたのを耕平も何度か耳にしたことがある。日頃からセレブを気取り、会社でも「フェラーリが欲しい」が口癖だ。
趣味でもカーレースをやっていて、先日、「車がクラッシュして足一本、無くすところだった」と聞かされた時、耕平は心の中で「惜しかったなあ。そうなってくれればよかったのに」と思ったほどだ。
耕平の父親は公務員で実家は三浦半島にあり、通勤には往復四時間もかかる。毎日疲れ切った表情で通勤してくる耕平を越中は軽蔑していた。太田と思惑が一致したことで、越中は耕平を徹底的にやっつけることにした。課長でもないのに仕切ることが好きな越中は突然、耕平抜きで出向者とイレギュラーの会議を画策したり、重要な回覧を耕平だけ回さないなど嫌がらせを次々と仕掛けていった。
越中は来月、都内の一流ホテルで結婚式を挙げる予定だ。
前回は式寸前で相手からドタキャンされ破談になったが、今回は父親から紹介された国際線の客室乗務員とめでたく結婚する運びとなった。
結婚式は一月八日。
もちろん、一層惨めな気分にさせるため、耕平だけは式に招待していない。耕平の悄然とした表情を想像して越中はほくそ笑んだ。我儘で生意気な越中には友人が一人もいない。本人は米国の大学を出ているから友達がいないと言っているが真相はわからない。仲人は部長の渡辺好孝、スピーチは専務の斉藤隆久と課長の太田の両方に頼んである。出席者のほとんどは会社関係者か、あるいはカネで雇ったエキストラだった。イベント会社の話では、それなりに盛り上げてくれるという話なので越中は大船に乗った気持ちでいられた。
越中には計算高い一面もあって、上の人間に取り入るのも上手い。
出社早々、専務の斉藤に話し掛けた。
「専務、結婚式のスピーチ、よろしくお願いします」
斉藤は満面の笑みを湛えて頷いてくれた。太田にも上司としてスピーチを依頼すると、本来は内向的で陰険な性格にもかかわらず、自尊心だけは人一倍強い太田は満更でもない表情を浮かべた。昨年の海外SC視察も耕平に先んじて越中に行かせた。英語が話せそうだからというのがもっともらしい理由だが、実際は太田が越中に恩を売ったに過ぎなかった。
耕平が来年、日本に帰国した時には会社に席がなくなっていることを考えると、越中は自然と笑みが零れてきた。太田との密約は万事打合せ済みだ。
耕平が初めて、中小企業診断士の試験を受けたのは食品会社にいた二十九歳の時だ。耕平は会社の将来に希望が持てなく、やむなく資格を目指した。
新年度に経理部から営業に異動になって、平日の夜間にある講座に通えなくなった。試験前は不運なことに、年末と並びもっとも多忙な中元商戦を迎えていた。耕平は勉強不足の焦りと連日の残業から疲労で体を壊し、試験前日に四十度近くの高熱を出してしまった。耕平の一回目の試験は、実際はロクに受験すらできない状態のまま終わってしまった。
耕平には当時、二年間付き合っている真由美という女性がいた。親同士も交際を認め婚約指輪も贈っていた。真由美は耕平の資格試験合格を誰よりも信じて応援もしてくれた。
しかし、耕平が試験に落ちた時あたりから真由美の態度が豹変した。
「今度、友達とタイに旅行に行っていい?」
「どうして結婚式の前のこの時期を選んで行くわけ? ナンパでもされに行くつもり?」
耕平が仕事の都合で行けなくなったコンサートには会社の男と腕を組んでいきなり、耕平の前に現れた。明らかな嫌がらせだったが、真由美が別れたがっていることに耕平はその時はまだ気がついていなかった。
「この前、友達の紹介でよく当たる占い師に診てもらったら、『あなたは、みずがめ座の人とは絶対に結婚しない方がいい』ってアドバイスされちゃった」
耕平の星座はみずがめ座だ。返す言葉がなかった。
ある日、耕平は突然、真由美から結婚式の日の変更を迫られた。
「結婚式の日取り、弟の受験と重なるから四月に変えてくれない?」
一月に挙げる予定だった結婚式を耕平の意志を完全に無視して勝手に変えろと言われた。耕平はゴールデンウイークがまとまって勉強する最後のチャンスと思っていたので、これで来年も試験に合格できないと思った。
正月になり、真由美の家に尋ねたら門前で三十分待っても出て来なかった。その時、耕平は付き合って初めてキレた。
「いい加減にしろよ。いつまでオレを待たせるつもりなんだ。オレは新聞屋か牛乳屋の勧誘かよ」
耕平の辛辣な言葉に勝気な性格の真由美は涙を堪え押し黙っていた。一度狂い出した歯車は二度と修正できない。耕平は真由美との付き合いも終わりが近いことを感じた。しかし、皮肉なことに勉強が面白くなりコンサルタントの世界に憧れを抱いた耕平は、そう簡単に資格を諦めることはできなかった。
耕平の三十歳の誕生日の日、二人はディズニーランドに行く予定になっていた。東京駅丸の内口で待ち合わせた真由美は耕平に会うなり言った。
「今日、体調が悪いから行きたくない。それから、もらったこの指輪も返すわ」
耕平が贈った婚約指輪はこうしてあっさり、耕平の手に戻ってきた。サプライズどころか、真逆の意味で史上最高のバースディープレゼントだった。耕平はこの時からひとりになった。
試験とは残酷だ。落ちた人間はどんな理由があろうともいかなる言い訳も許されない。勝てば官軍、負ければ賊軍がこの世界のルールだった。
耕平がある日、自席で仕事をしていると、越中が耕平の頭の上で鉄アレイを振り回し始めた。越中は女の腐ったようなウエットな性格だが、一方でジムに通いマッチョ体型に憧れている。スポーツクラブだけでは飽き足らず、会社にもニ十キロの鉄アレイを持ち込んで仕事中に振り回していた。ただし、それも越中の耕平への嫌がらせの一つである。
耕平は最初黙っていたが、遂に大声を荒げた。
「ここは会社だぞ。お前、いい加減にしろよ!」
越中はいきなり、後ろから耕平の首を締め上げてきた。
我儘でヤンキー気質もある越中は一旦怒りに火が付くと手が付けられなかった。就業時間以外で人も少なかったことが幸い、大事にはならなかったが、耕平はこの時、一歩間違えば殺されたかもしれないと思った。明らかに耕平を挑発する作戦だが、日頃から万事根回しが上手いため、越中を非難したり咎たりする者もいなかった。太田はもちろん専務の斉藤も一部始終を見ていたにもかかわらず、見て見ぬふりをして何も注意しなかった。
この一件は役員会議に掛けられた。
頭の上で鉄アレイを振り回されれば誰でも大きな声を出す思うのだが、一方的に悪者にされたのは越中ではなく、むしろ耕平の方だった。
その事件の数日後、越中が顔に大きな痣を作って来た。一目で殴られてきたのだとわかった。日頃から生意気なので喧嘩沙汰は絶えない。本人は「電車の中で因縁を付けられた」という話だったが普通、社外でも暴行騒ぎを起こせばは依願退職を迫られるそうなものだが、越中の場合は不問に付されたばかりでなく、会社の「元気印」などというバカげた称号まで付与された。
北陸地方にあるK市のショッピングセンタープロジェクトの仕事を手掛ける耕平は、いつものように小松駅からタクシーで小松空港に向かった。
空港に着くとジェット機の轟音がフロア中にまで鳴り響いた。二階エントランスには巨大クリスマスツリーが聳え立っている。1993年もあと二週間で終わる。最終便で羽田に着いた時、耕平は空港の公衆電話から自宅に電話を入れた。携帯電話が一般に普及してくるのは2000年代に入ってからだ。しかし、どういう訳か呼び出し音が何度鳴っても誰も電話に出る気配がなかった。高齢の両親が師走の夜九時過ぎになって外出することはどう考えてもありえないことだった。
耕平は胸騒をおぼえた。
私鉄の最寄駅からタクシーで帰ると案の定、自宅は真っ暗だった。合鍵でドアを開け慌てて台所のスイッチを入れると、テーブルの真ん中に母の君枝の見慣れた字でメモが置いてあった。
『耕平が出張した日、お父さんが倒れて今、南共済病院に入院しています』
こんなシーン、何かのテレビドラマで見たことがあると思ったら実際、自分の身に降りかかってきた。耕平が出張した日、君枝の運転する車で病院に行く父の恭介と最寄駅まで一緒に行った。
あの時、恭介は駅の階段を上って行く耕平の後ろ姿を車の中から見ていた筈だ。耕平は私服に着替えると車で病院に向かった。
緊急窓口の夜間受付で面会を許可され、病室に急いだ。恭介は六畳ほどの狭い個室で鼾を掻いて寝ていた。耕平には普段の恭介と変わらない様子に見えた。君枝は恭介が倒れて以来、三日三晩不眠不休で付き添っていた。
「何で、オレが出張中に知らせてくれなかったの?」
「耕平の仕事の邪魔しちゃいけないと思って・・・・・・」
君枝が耕平の仕事を優先してくれたのは嬉しかったがそれは時と場合による。四十代半ばくらいの男性医師は「お父様は持病の糖尿病があるうえ倒れた時、頭を打った衝撃で脳内出血を起こしています。今後、一切予断は許さない状態です」と話した。素人目に見ても重体であることは想像できたし、意識は戻りそうもないとも思った。君枝を残して耕平は翌日、何事もなかったように会社に出社した。一応、直属の上司である太田や渡辺には父の現在の状態を話した。
耕平は年内、もう一度北陸に出張に行くことになっていた。
ところが空港に到着した時、恭介の容態が急変した。耕平はすでに機内に乗り込んでいた。その日は日帰りだったので、羽田空港から自宅に電話を入れると叔母が出た。「耕平ちゃん、今日お父さん、危なかったのよ」と言われた時、耕平は公衆の面前にもかかわらず号泣してしまった。周囲の人たちは大の男が泣き叫んでいるのを見て、ニヤニヤ笑いながら面白そうに眺めていた。耕平はすぐに病院に駆け付けたが、恭介は奇跡的に持ち直してくれた。恭介はその後意識は戻らなかったが幸い、年内は小康状態が続いた。
耕平は休日、集中治療室にいる恭介の見舞いに訪れた。ベッドで管を多数巻きつけられた姿は痛々しさを通り越し、いっそラクにしてやりたいという気持ちを抑えられなかった。寝返りを打とうにも、体の動きがまな板の上に魚のようで尋常ではなかった。
耕平は冷静に考えた。
(これは素人目に見ても絶対に助からない。間違いなく、近日中に死ぬだろう。でも、どうせ死ぬなら、一月八日に亡くなってくれないだろうか。そうすれば奴の結婚式に一人だけ呼ばれなかった面子も立つし、奴の結婚式に葬式を当てることで、思いっきり水を差すことができる。
これは呪いかもしれない。越中には他人には言えぬ積年の恨みがあった。
耕平は恭介のベッドの脇で密かに念じた。
(親父、頼む。最後にオレの願いを聞いてくれ! 年内はもってくれ。そして、一月八日に死んでくれ! 頼んだぞ、親父!)
世間ではクリスマス一色だが、耕平は今後、何時急変するかわからない恭介の容態を考えると沈痛な気分から一時も逃れられなかった。
新年が明けた。耕平は年明けからさらに多忙になった。
一月八日は土曜日だった。
昨日も残業で布団で久々に熟睡していた耕平は、階下のけたたましい電話の音で起こされた。それは病院から恭介の危篤を知らせる電話だった。
『お父さまの容態が急変して危険な状態になりました。すぐに病院まで来てください』
耕平と母は取る物もとりあえず、車で病院に向かった。
恭介は医師や看護師に囲まれ何かしら措置が行われていたが、何をしても無駄であることは容易に想像できた。次の瞬間、先日の医師がまるで棒読みのように台詞を読み上げた。
「午前十一時ちょうど、ご臨終です」
耕平は信じられない思いで、ベッドの脇に立っていた。
(オレの思いが通じてしまった。まさか、本当に今日、亡くなるとは)
倒れてわずか三週間の呆気ない死だった。
恭介はまだ六十五歳、年金を受給して半年しか立っていなかった。耕平は一瞬動揺したが、まず会社に電話を入れなければならないと思った。しかし、あいにく今日は土曜である。誰も出社していないことに気が付いた。
自宅に戻り、住所録で総務課の須賀毅というM銀行から出向できている課長に電話を入れた。須賀は幸い、自宅にいて「お気を落とさずにいてください。社員には私から連絡を入れておきます」と取り計らってくれたので、耕平は一先ず胸を撫で下ろすことができた。
結婚式の会場になっているホテルでは、午後一時から始まる式に招待客がロビーに集まりつつあった。斉藤、渡辺、太田以外にも会社設立の際に出資元の企業から出向できている社員も越中の招待を受けて、特別仲が良いわけではないが義理で何名かが出席している。
突然、ロビーでホテルの従業員が大声を上げた。
「こちらに斉藤様はいらっしゃいますか? 斉藤様に緊急のお電話が入っています」
斉藤は訝しそうな表情でロビーから消えていった。斉藤がその数分後、硬い表情を浮かべながら戻ってきた。斉藤が声を潜めて渡辺に声を掛けた。
「郡上の父親がたった今、病院で息を引き取ったそうだ。明日が通夜、明後日が葬儀らしい。葬儀は断れても、明日の通夜には行かない訳にはいかないだろう」
「そうですね。専務と僕は式が終わったら即帰るけど、君はこれからどうするんだ?」
太田は苦々しい思いで、渡辺の問い掛けを聞いていた。
斉藤が渡辺と太田の顔を交互に見ながら話しかけた。
「郡上もこれから通夜葬式と忙しいだろうから、アメリカ先進SC視察は誰か、会社の他の人間に行ってもらうしかないだろうな」
陰険な太田はその時、まったく別のことを考えていた。
(これで、オレが入念に企てた計画がすべて駄目になるかもしれない)
何も知らされていない越中は、司会進行の者と結婚式の打ち合わせに得意満面でいた。ロクに友人もいない越中の結婚式は予想通り盛り上がりに欠けた。その中で唯一気を吐いたのが太田だった。客室乗務員たちの前でええカッコしたい一心でスピーチをしたが、ギャグがつまらなくスベりにスベって招待客から失笑を買った。
式の途中で耕平の父の訃報を知った会社の人間は早々に引き揚げ、式が引けた後の二次会の話も出なかった。越中は結婚式が盛り上がらなかった理由が己の人望のなさだけでなく、耕平の父親が亡くなったことであることをこの時はまだ知らなかった。結婚式当日に、他人の訃報を口にするほどの非常識な人間はさすがにいない。もちろん、仕事を終えたエキストラたちも、式が終わるとさっさと帰っていった。
通夜はしめやかに行われた。
「お父さんはきっと家に帰りたかったはず」と母が話したことで、遺体は自宅に移され葬式は斎場でなく自宅で執り行われた。
会社からは斉藤、渡辺の他、社員も何人か出席して参列者は数百人に及んだ。皮肉な話だが、越中の結婚式よりよほど賑わいがあった。真知子は通夜、葬式とも参列してくれた。出棺の際、恭介が可愛がっていた毎日散歩させていた飼い犬のコロが二度咆哮した時、耕平は涙が溢れた。
通夜の最中、太田は焦っていた。
業界団体主催のアメリカ先進SC視察旅行は一月十五日から十二日間の日程で行われる。太田は耕平が不在な時を見計らって、渡辺に「K市のプロジェクトは郡上さんでは荷が重いと思います。今後は越中君に任せたいのですが」と直談判するつもりだった。しかし、耕平が忌引きでアメリカに行けないようなら、その企てはすべて水泡に帰してしまう。しかも、運の悪いことに日程が越中の新婚旅行と完全に被ってしまった。
耕平を排斥するため、新婚旅行から帰ってきた越中と「是非、K市の案件を越中君に担当させてください」と言うなら説得力も増すが、太田ひとりだけでは心もとなかった。
耕平は恭介の通夜、葬儀を終え、ようやく落ち着きを取り戻した。
一週間後、出社して通夜、告別式で世話になった社員に一通り挨拶をすると皆、「突然のことでたいへんでしたね」「ご愁傷さまです」など返答してくれたが、太田だけは眼鏡の奥から陰険そうな小さい目で耕平を睨みつけていた。
耕平は越中だけには何も声を掛けなかった。通夜や葬儀に来てもらったわけでもなければ越中の結婚式に行ったわけでもない。二重三重の意味でロックが掛かり、こちらから話す義理など何もなかった。
ところが、越中はそうは思わなかった。
結婚式に耕平を呼ばなかったのは筋書き通りだったが、結婚式当日に葬式でぶち壊されただけでなく、太田と共謀していたK市のSCプロジェクトも乗っ取ることができなかった。
アメリカ視察から帰ってきたら、K市のプロジェクトから外されたことを知った耕平が意気消沈して会社を退職するというシナリオが完全に崩れてしまった。越中は東北地方のH市の案件を抱えていたが、これは、花形案件のショッピングセンター開発ではなく、将来性のない地味な商店街活性化の仕事だった。耕平からK市の仕事を横取りしたら、H市の案件は速攻で放り投げるつもりだった越中は何かに八つ当たりたくて仕方がなかった。
今回の一件で怒りが収まらなかった越中は腹いせで、耕平をさらに挑発する作戦に出てきた。
「K市の二回目の検討委員会、渡辺部長が迷惑かけられたってボヤいてたよ」
越中が咄嗟に考えた作り話だった。
「人のことより、自分の仕事を考えた方がいいんじゃない?」
「てめえ、表に出ろ!」
予想通り、越中は逆上して耕平の胸ぐらをつかんできた。
検討委員会は耕平が忌引き休暇している間に開催されたのだから仕方がなかった。ただ、耕平は通夜や葬儀で世話になり仕事でも穴を空けた負い目があり、それ以上抗うことができなかった。
この一件もまた、役員会議に掛けられた。
総務課の報告書には以前にも同じことがあった。「会社でいきなり大声を出した」とあたかも耕平だけが悪いように、そのことだけが大袈裟に書かれた。仕事中に鉄アレイを振り回されれば誰でも大きな声を出す思うのだが、今回も胸ぐらをつかまれた上、一方的に悪者にされたのは越中でなくむしろ、耕平の方だった。
案の定、結婚生活は最初から上手くいかなかった。
元々、女の方も越中が田園調布に敷地三百坪の家がある成金で、ゆくゆくは不動産会社の跡取りになることが決まっているから結婚しただけだ。別に人柄に惚れて結婚したわけではなかったから翻意するのはいとも簡単だった。
ある日、越中が自宅に二十キロもある鉄アレイを持って帰ってきた。
「ちょっと、これ会社に持っていって何してたの?」
越中は女の問い掛けに応えない。
「まさか、これを仕事中に振り回してたわけ?」
「そうだよ。あの野郎、文句言ってきやがったから首まで締め上げてやったら野郎、ヒイヒイ言ってたよ」
女は絶句した。
「あの野郎、俺たちの結婚式に合わせて親父を殺しやがった」
「そんなこと、狙ってできるわけないじゃない。あんた、本気で言ってるの?」
「結婚式に水を差されただけじゃねえ。奴のアメリカ行きも見送りになって仕事も分捕れなくなっちまった」
「その腹いせで、その人暴行してたの?」
女は今まで気が付かなかったがこの時、初めてこの男は狂っていると思った。結婚生活はわずか半年で破綻した。元々女の腐ったような性格の甘ちゃんで、心根も弱い上、仕事も上手くいかないときたら決断は一つしかなかった。
越中は半年後突然、会社に辞表を出した。
太田だけは懸命に慰留したが退職願は受理された。退職の時、越中は「自分もショッピンセンター開発の仕事をやりたかった」と話した。しかし、それが嘘だと見抜いたのは耕平だけだった。ショッピングセンター開発の案件は何もK市だけでない。進行中のプロジェクトが数件あり、出向社員が担当している案件だってある。
「自分もショッピングセンター開発の仕事をやらせてほしい」と懇願すれば上役に気に入られている越中なら担当させてもらえたはずだ。しかし、太田と共謀して耕平を辞めさせることが目的だった越中は耕平の案件を分捕る以外に方法はなかった。
越中の辞表は受理されたが、挨拶だけで特に送別会は行われなかった。
表面上は越中に合わせている者もいたが結局、越中は誰からも好かれていなかった。耕平は幸いその日、K市に出張して出席しなくて済んだが、ひねくれ者の越中なら退職の日にあえて耕平が出張を組み込んだと考え、逆恨みしたはずだ。
越中が辞めた後、会社が主催する街づくり協議会があった。
耕平は担当する案件の自治体の担当者以外にも他の自治体にも顔見知りが何人かいた。懇親会ではH市の商業振興課の高橋という担当者が近づいてきて、耕平に馴れ馴れしく声を掛けてきた。
「参りましたよ、越中さんには。結局、仕事途中で放り出して逃げちゃったでしょ」
「越中は先月辞めましたが、高橋さんに何も言っていなかったのですか?」
「自分に都合の悪いことなんて、何も言わないで勝手に辞めちゃいましたよ」
越中はパフォーマンスだけは上手いが、仕事ができたとは言い難かった。
また、越中を失ったことで太田の求心力は急速に衰えた。
太田は元々仕事ができない上、怠け者で働くのは好きではない。クライアントの評判も最悪だ。ラクすることばかり考え、実際は上っ面をなぞらえるようなことしかしていない。会社設立当初はわからなかったが、越中が退職してからそれが一気に露呈し始めた。
太田は越中が辞めた一年後、逃げるようにして会社を辞めていった。
会社で簡単な送別会があったらしいが、耕平は越中の後ろで糸を引き、散々酷い目に遭わされた太田の送別会は意図して出席しなかった。
不思議なことに越中も太田も会社を辞める前と辞めた後で、まったくといっていいほど変化がなかった。二人とも実際は居てもいなくてもよい、要はどうでもよい人間だった。
耕平は小松空港にいた。
二階のエントランスには今年も巨大ツリーが飾られていた。
K市のショッピングセンターは無事オープンに漕ぎつけることができた。早いものであの日からもう三年が立った。今日は来年の竣工に向け最終段階の会合があり、耕平は空港で羽田行きの最終便を待っていた。あの一件の時、当時専務だった斉藤は高齢の会長を言い含め社長になり、取締役だった渡辺は常務に昇格したが、耕平だけは平の研究員のままだった。
会社は越中と太田が辞めた後、立て続けに中途採用で社員を五、六人取った。寄せ集め感の強い会社が一層際立ってきた。しかし、研修もない、指導する人間が一人もいない会社では社員がまったく育たなかった。
耕平は中途で採用された社員が気の毒だと感じたが、あえて仕事を教えるようなことはしなかった。上層部からは耕平に「仕事、教えてやればいいじゃないか」などと言われたが、そんな甘言に乗るほど愚かではなかった。
斉藤からはまったく協調性がないと批判されたが、自分が正当な評価をされていない以上、他人に仕事を教える義理などなかった。耕平は課長でもないただの平社員だから権限などないに等しい。これは耕平ができる会社へのささやかな抵抗だった。
耕平は中途採用の人間と必要最小限の付き合いはしたが、一切飲みにいったりしなかった。
青天の霹靂とはおそらくはこういうことを差すのだろう。
突然、越中が来社してきたのだ。耕平は嫌な予感を拭えなかった。
(三年前に辞めたこいつが、今さらいったい何の用で来たのだろう?)
越中は社長室に直行すると籠ったまま、一時間以上立っても出てこなかった。耕平が越中が何しに来たのか、総務課の高山豊に尋ねた。
「越中さんの会社のビルでテナントを募集しているらしいので、何でもその件の話みたいですよ」
しかし耕平は直感で、それは絶対に違うと確信した。
越中がわざわざ会社に来たのには何か特別な理由があるはずだ。越中の親の会社が都内に貸しビルを複数所有しているという話は耳にしたことがある。高山が言うように、表向きはあくまでテナント誘致なのだろう。資本金の潤沢な半官半民会社とは言え、ビルの賃料は年間数千万円にも及ぶから良い条件のテナント賃料なら一考の価値はある。経費節減のため賃料を抑えることはできるだろう。
ただ、越中が斉藤を訪ねて来た本当の理由は、おそらく耕平を会社から辞めさせることだ。
越中にしたら離婚した原因を作ったのも、泣く泣く会社を辞めたのもすべては耕平のせいだ。その上、耕平が会社にいて今後、偉くでもなられたりしたら越中の性格なら許せないはずだ。越中は退職後も金に物を言わせ、盆暮れの付け届けなどもしているから斉藤の受けは非常によい。来社しても歓迎されたはずだ。
在職中、斉藤を馴れ馴れしく「伯父貴」などと呼んでミエミエのヨイショをしていたことも目にしている。一方、耕平は身に覚えのない悪い噂を越中から吹き込まれたり、わざわざ上の人間に嫌われるように様々な罠を掛けられた。
社長室では越中が口を開いた。
「社長、ご無沙汰しています」
越中は通り一遍、テナント誘致の一件を済ませると透かさず本題に入った。
「ところで郡上の野郎、まだ会社にいるんですか? 伯父貴、あの野郎、いい加減辞めさせてくださいよ」
「生意気な奴だ。なかなか辞めさせられなくて困っているんだよ。でも、オレに任せとけ。必ず、君の仇を取ってやる」
「伯父貴、本当によろしくお願いしますよ」
越中は慇懃な様子で社長室を出ていった。
斉藤にとって耕平は愛想もなく可愛くもない奴だ。越中は生来のヤンキー気質で暴力性もあるが、馴れ馴れしさやミエミエのヨイショもして、適度の甘えも持ち併せている。越中に懇願され、プライドを擽られた斉藤はすっかりその気になってしまった。
この頃、耕平は仕事だけでなく会社の放漫経営にも気付くようなった。
資本金が潤沢にあるので役員が湯水のごとく金を無駄使いをしている。まだ十分にリムジンバスのある時間なのに、渡辺が羽田空港から葉山の自宅までタクシーで帰ってしまう。また、遊び同然の役員の海外SC視察、高級料亭での接待、仕事と称したゴルフ以外、利益操作などの粉飾決算も頻繁に行われるのを目にして耕平は苦々しい思いをしていた。会社は役員たちのやりたい放題だった。
耕平は仕事に遣り甲斐を感じていたが、会社の経営方針に疑問を抱くようになった。そもそも会社経営とは会社の成長や繁栄、社員の幸福を考えるものではないだろうか。ところがウチの役員ときたら自分たちの私利私欲を考えるだけで、肝心の経営がまったくできていない。越中や太田のように問題ある社員がやっといなくなったと思ったら、今度は真面目に仕事をしようとしない役員たち相手に耕平は頭を悩ますことになった。
斉藤は渡辺を社長室に呼んだ。
「お前に是非、やってもらいたいことがある」
渡辺は斉藤の前では借りてきた猫のように大人しい。
「ところで今、ウチの会社でトラブルになっている案件って、どれくらいあるんだ?」
「いろいろありますが、特にトラブっているのは案件は宮城県のS町のキーテナントと新潟県K市の中心市街地活性化のプロジェクトですかね」
「それ、二つとも郡上に担当させろ!」
「どういうことですか?」
「郡上を始末したい。S町は元々、オレが手掛けた案件だからよく知っている。K市の案件はお前がやっていたんだから、それを郡上にやらせれば一石二鳥だろ」
「しかし、二つとも一人で手に負えるような案件ではないですよ」
「そんなこと百も承知だ。上手くいかなければ郡上に責任を取らせて辞めさせることができるだろ。会社にいる以上は徹底的に使いまくれ。ただし、仮に上手くいっても絶対に評価なんかしないから。アイツは気に食わない。だから、郡上は使い捨てにしろ!」
「でも郡上のことですから、透かさず上層部を批判してくるかもしれませんよ」
「心配するな。その時のことも考えてある。仮に郡上が暴言でも吐いてきたりしたら、それを理由にクビにしてやればいい」
要はどのように転んでも耕平をクビにする作戦だった。
耕平はその後、社長室に呼び出された。
社長室にはどういうわけか、渡辺もいた。
渡辺が突然、口を開いた。
「今、ウチが宮城県S町のSCプロジェクトと新潟県K市の中心市街地活性化の案件を手掛けているのは知っているよね」
上手くいっていないという話は小耳に挟んでいるが、あまりに不躾な話だった。耕平は他人事のように黙って聞いていた。
「それを今度、君にやってもらいたい」
「どういうことですか? お言葉ですが、私が今担当している新潟県S市のSC案件はもう大詰めに入っていますし、北陸K市のプロジェクトも来春竣工を迎えるので、そんな余裕がありませんよ」
「それを承知で君に頼んでいるんだよ」
「社長は君の能力を日頃から高く評価して言われているんだよ」
渡辺が事前に口裏を合わせたかのように言った。斉藤が透かさず、畳み掛けた。
「こんな仕事、昨日や今日入ったような中途採用の人間じゃ頼めないだろ?」
耕平は、要は体よくトラブル案件を自分に押し付けるつもりなんだなと思った。体よく言い含められた耕平はその後、新潟県と宮城県のプロジェクトを任され孤軍奮闘していた。いずれも斉藤や渡辺がいい加減に手掛けてきた案件が後々になって、大きなトラブルに発展してしまっていた。
S町の課長は耕平に向かってこう言った。
「オタクに発注する時、斉藤さんが責任もって、ウチがキーテナントを探しますって言ったよね? キーテナントを紹介してくれないなら東北通産局に直訴するから」
斉藤が専務の頃、軽口を叩いて言ったことが後々大問題になっていた。その矢面に立たされたのが耕平だった。
渡辺が担当していた新潟県K市の案件でも同じだった。
「あのさ、おたくの会社にコンサルタントフィーとして四千万円も支払ったのに、渡辺さん、何も仕事をやっていないよ」
相手側は訴訟も辞さない構えだった。
この不祥事の尻ぬぐいも耕平に回ってきた。耕平は会社の信頼を回復するため懸命に仕事をした。耕平の仕事ぶりを見て、クライアントの中には耕平の身の上に同情したり、逆に耕平を応援してくれる人まででてきた。K市の商店街振興組合の理事長からは「郡上さん、トラブルをひとりで押し付けられて気の毒だね」と耕平を逆に励ましてくれた。
越中の来社の後、計ったように耕平への風当たりが一層厳しくなった。
折も折、トラブル案件だけでなく竣工寸前の案件を複数抱えていた耕平はパニックになっていた。それを後押しするかのように斉藤の子分の役員たちが手を変え、品を変え、時を変え、様々な形で耕平を攻撃してくるようになった。いじめは組織の中ではもっとも楽しいゲームだから皆こぞって参加してくる。もちろん、ここでのいじめの対象は完全に耕平ひとりだった。
耕平はその頃、斉藤が途中で放り投げたS町のキーテナント探しのためひとり東奔西走していた。そんな折、東北のチェーンストアが宮城県内に多店舗展開をしているのを聞きつけ、仙台まで出向いてキーテナント誘致の説明に行った。ところが、相手がまるで乗り気でないことがわかって途方に暮れた。
運が悪いことにその日、加藤史恵という社員が耕平の出張先にわざと電話を入れ、耕平がたまたま来ていなかったことがあった。出張の序でに耕平が他の量販店の本部に立ち寄ったことが悪い方向に拡大解釈をされて、それがカラ出張とみなされた。加藤は器量も頭も悪いが、役員たちの受けはどういうわけか悪くない。無能で自分の頭で考えることはできないが、上役に盾を付かず何でも言いなりになるのが幸いして、クビにならず今も会社に踏み留まれている。
耕平の苦労が実を結び、全国展開しているD社、N社、神奈川県内のOストアだけがキーテナント説明会に参加してくれる運びになった。会社の面目は一応立ち、キーテナント説明会は後日、会社で行われることになった。
その日、S町からは助役以下十数名が会社に押し寄せた。説明会は予定通り行われたがD社はその後、産業再生法を申請し事実上倒産し、N社も会社更生法の適用を受け倒産した。Oストアはまだ、東北地方に進出するほど実力が備わっていなかった。要は将来性のない量販店にムリヤリ頼み込みんで形だけ説明会をやったに過ぎなかったが、会社の面目だけは保てた。
しかし、街の活性化の起爆剤としてショッピングセンターを誘致したいという気持ちがわかるだけに、耕平は胸が痛んだ。
耕平はこの頃、過度のストレスやパワハラから自律神経を痛め、過敏性大腸炎に罹患していた。通勤途中で何度も腹が痛くなり、途中下車して駅のトイレに駆け込むことが頻繁にあった。耕平の頑張りとは裏腹に心身はもはや限界に達していた。
ある日、会議中に耕平は売り言葉に買い言葉で挑発に乗り、渡辺と口論になってしまった。発端は、耕平が営業会議で放った一言だった。
「このままでは会社の信用は完全に丸潰れです。役員の方、特に渡辺常務は少し真面目に仕事をしてくれなければ困ります」
この一言が引き金になり、社内で耕平への挑発行為は一掃厳しさを増した。
この一件で、斉藤の腰巾着で企画部長の水口俊一が耕平に強く退職を迫ってきた。
「君は以前、カラ出張してたらしいな。会議でもまた、暴言も吐いた。しかも渡辺常務を名指しで傷つけた。だから、もう依願退職しかないだろ!」
普段は渡辺と水口は犬猿の仲だが、斉藤に言い含められている水口は平気で白いモノを黒と言うことができる。耕平は会議の後、その件で正式に経営会議に掛けられた。
「以前にも同様のことがあった」と越中との一件の報告書で言い掛かりをつけられ、社長の斉藤から直接退職を迫られた。
「今回の件、どうやって責任を取るんだ?」
「責任と言われますと、具体的にどうしろとおっしゃるのですか?」
「今回だけじゃない。君は日頃から上層部批判を繰り返しているらしいからね」
耕平の上層部批判は間違いなく、越中が焚きつけたものだ。耕平は以前、一度だけ社長の振る舞いについて越中に愚痴ってしまったことがあった。おそらくはそのことだろう。鉛筆の芯程度のことでも、コイツの手に掛かると電信柱くらいに膨らまされてチクられてしまう。越中の常套手段で、他人を蹴落とすことにかけては天才的な手法を発揮する。
耕平は口を開いた。
「要は退職しろと言うことですか?」
斉藤は一言も言わない。自分で考えて結論を出せと言う意味なのだろう。
「一つだけ聞いてよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「あなたは私が以前、越中と諍いを起こしていた時、いえ厳密に言えば私は挑発されて首を絞められていた時、黙って傍観していましたよね。私は鉄アレイを頭上で振り回されたから大声を上げただけの話ですよ。それなのに、社内で他人に暴力を振るった人間については不問に付しましたよね。あなたは逆上した奴が暴行していることを終始ニヤニヤしながら眺めていたじゃないですか? それでも、あなたは会社の経営者なんですか?」
「そんなこと、君が直接言わなきゃ駄目だよ」
「はあ? 他人に暴行を加えた人間が経営会議にも掛けられないで、危害を加えられて大声を出したら営業会議に賭けられて処罰されるんですか?」
「全部、君が悪いんだよ」
斉藤は昔から自分の過ちは絶対に認めない性格だ。上下関係を使ってムリヤリ押さえつけてくる。人間的にまったく成長しないコイツと話をしていても時間の無駄だと思った。
「そんな会社なら、居たくないです」
「それで、結局どうするんだ?」
「あなたの気持ち、いえ、会社の意向はよくわかりました。正当には評価されず、人格を蔑まれるような会社なら一日たりとも居たくありません。明日、退職願を提出します」
それは、まさに越中の描いた筋書き通りだった。
耕平は翌日、退職願を提出した。
斉藤はわざとらしく、「こんなものが出てきちゃったのなら、もう受け取らない訳にはいかないな」と言いながら、その表情はどこか、満足そうだった。
耕平は北陸や新潟県で進行中のSCプロジェクトは計画書も提出し、トラブっていたK市の中心市街地活性化案件もそつなくやり遂げた。今後、会社に花形のSC案件はなく、耕平を用済みにするには絶好のタイミングだった。
以前、斉藤にも耕平と同じくらいの年齢の息子がいると話していたことを訊いたことがある。仮に自分の息子が耕平と同じように理不尽なことで退職を迫られたらどう思うのだろうかと思ったが、元々良心の欠片もないクズが赤の他人の耕平に情を掛ける気持ちなどないと思い、考えるだけ無駄だと思った。
会社を出ると、師走の町並みは慌ただしく感じた。
耕平の送別会は都内の小さなレストランで真知子ら数名の社員だけで行われた。真知子も日頃から斉藤の傲慢さやいい加減さを毛嫌いしている。
「郡上さんが辞めさせられるのなんて絶対、納得できないわ」
「退職しろって言われて、辞表も提出してそれも受理されちゃったからもう仕方ないよ」
耕平は年末で会社を辞めた。
社内で忘年会があり、ケータリングで取った鮨などが並ぶ中、耕平は形式的に退職の挨拶させられた。
「数ヶ月前から体調が悪くずっと悩んでいました。このまま会社にいても自分にプラスにならないと思い、今年限りで退職することにしました。ただし、今まで会社には誠心誠意尽くし、自分ではよい仕事をしてきたという自負があります。だから後悔はありません」
精一杯の皮肉を込めて挨拶をすると、その場が水を打ったように静かになった。耕平は今後、正しい方向に舵を切る人間もいない、漕ぐ力も持たない会社という船が大海原で漂流していくように感じた。漂流どころか下手すれば沈没するだろうと思った。
会社を辞めた後、結局キーテナントを見つけられなかったS町から耕平の自宅に新米が届いた。お世話になったお礼のつもりらしいが、市町村から個人に盆暮れの付け届けがあるのは異例のことだ。新潟のプロジェクトで一緒に仕事しているゼネコンからも海産物が届いた。耕平は当たり前の仕事をしていただけだが、耕平は社内の人間関係と違って、クライアントからは真面目に仕事をやってきたことが評価されていたのだと思った。
耕平はけっして上手くはいかなったクライアントたちからも尊重されていたのかと思うと感激で涙が出る思いだった。
耕平が会社を辞めたことは新年度最初の経産省との定例会でも簡単に報告された。議事進行役の水口が事務的な口調で話した。
「昨年末でひとり、社員が辞めました」
会議での経産省のメンバーは経産省の職員だけでなく、大手損害保険会社からの出向者や交流人事で全国各地の地方自治体からの職員なども派遣されている。その中には北陸百万石市役所から派遣された竹下博之もいた。
社内でも新年早々、営業会議が行われた。しかし、会議は毎回お通夜のようだった。会議に出席している人間は十年もいるような顔をして、実際はロクな実務経験もノウハウもない連中ばかりである。会議とは名ばかりで素人だけの会議が白熱することもない。
渡辺が重苦しい雰囲気の会議に痺れを切らしたように口を開いた。
「お前ら、ずっと黙っていても埒が明かないぞ。悩んでいることがあれば社長だって専務だっているんだから、遠慮しないでどんどん言えよ」
もっともらしいセリフだが、会議は別名パフォーマンスの場でもある。しかし、渡辺の言葉に反応するような奇特な者は誰一人としていなかった。耕平を失ったことは後々、ボディブローのようにじわじわ効いてきた。
耕平に対する役員の評判はよくなかったが、クライアントである市町村の耕平への評価はほとんど好意的だった。
耕平が辞めた後、担当していた宮城県のS町や新潟県K市からすぐ電話が掛かってきた。
「この前視察で会った時、元気そうだったのに。郡上さんに何があったの?」「郡上さん、急に会社を辞めちゃったの?」など、新年早々から耕平の退職を疑問視する電話が多々あった。
新潟県S市のプロジェクトのゼネコンからは「ショッピングセンターの竣工式に郡上さんを招待したいんだけど招待状送ってもいいですか?」という電話が会社に掛かってきた。
渡辺は開口一番、「郡上はもう辞めた人間ですから招待状ははいいです」と阻止しようとしたが、電話を切った時、汗で手がぐっしょり濡れていた。
理不尽な理由であっても会社を辞めさせられた耕平は突然、無職になり途方に暮れた。
耕平は資格があるから独立開業しようと考えたが、取り合えず別の資格を取得することを考えた。さらに一つか二つ資格を取得すれば開業も優位に進めることができると考え、資格予備校に通うことにした。しかし、周りは二十代の者ばかり、いい歳をして資格試験を目指すのもだんだん空しく感じるようになって、勉強開始半年で挫折した。
ある日、耕平は滅多に見ることがない新聞の求人欄を見て愕然とした。
偶然、ある記事に目を奪われたからだ。
それは北陸の百万石市が発信していた「大学卒業程度職務経験者募集」の広告だった。募集要件を調べると対象が中小企業診断士取得者で、耕平は年齢など他の要件もすべて満たしていた。耕平は直感でこれは面白そうだと思った。
耕平は同県のK市でショッピングセンター開発の案件を手掛けた経験や実績がある。商業振興のプロの自分に打って付けの仕事である。耕平は早々願書を取り寄せ、募集要項に必要事項を記入して送ると一週間後、受験票が送られてきた。正直、この年齢で公務員のルートが開かれているとは夢にも思わなかったが、受けるだけ受けてみようと思った。
ただ、一般に地方公務員は現地採用が基本である。Uターンでもなく首都圏から地方の自治体を受験して採用された例など聞いた試しがないが、耕平は好奇心を抑えることができなかった。受験は百万石市で行われたが、論文の出来がよかったらしく筆記試験に通った。最終試験の面接は今まで手掛けてきたK市のプロジェクトについて正直に話したら運よく合格することができた。地方出身かつ年齢制限ギリギリで、地方公務員になれるなど夢にも思わなかった。
耕平は就職の際、「在職証明書」を貰うため約一年振りに会社を訪れた。
その時、会社の誰もが耕平を好奇の目で見ていることがよくわかった。
総務課の高山豊が愛想笑いを浮かべながら「一応、就職する会社名を聞かせてください」と言ったので、耕平は正直に「百万石市役所です」と答えた。
その時高山の表情から一瞬、笑顔が消えたことを耕平は見逃さなかった。
耕平は早々現地に出向き、2DKの手頃な賃貸マンションを探して住居とした。四月になり入庁式があった。耕平は予想通り、商業振興課に配属された。
耕平はあまりに希望通りに事が運んだことが、自分でも信じられない思いだった。
百万石市には交流人事という名目で経産省の商業集積推進室に出向の席が一つある。その商業集積推進室こそ、耕平がいた会社を管理監督する立場にある。毎月定例の連絡会があり、役員たちは商業集積推進室の官僚や課員たちから指導や叱咤激励されたりする。出資先である親元の商業集積推進室に席を持つ商業振興課に配属されたのは何かの因縁かもしれなかった。
耕平はこれを利用しない手はないと思った。
耕平は市役所で最初は目立たぬよう大人しく振舞っていた。
機はまだ熟していない。耕平はじっくりとその時を待った。
ところが不意打ちを食らわすように、入庁してまもなく、会社の人間が頻繁に市役所に姿を現わすようになった。明らかに耕平の動向を探ることが目的らしく、時を変え人を変え、仕事でもないのに市役所に現れた。
ある日突然、並山政彦という中途入社の社員が目の前に現れた。
「郡上さんのお顔が見たくて」
「はあ?」
耕平は用もないのにいったいなぜ、並山がこの場に現れたのだろうか理解に苦しんだ。
「渡辺さん、郡上さんが辞める前から会社辞めたかったんだって、言ってましたよ」
「どういう意味?」
渡辺が会社を辞めたという。しかし、今頃になって渡辺がなぜ、そんないい訳じみたことを言い出してきたのだろう。考えられることは、百万石市のあるI県をクライアントにする渡辺が耕平を怖がっているということだ。
渡辺は以前、I県にあるN市の再開発に関わっていると聞いたことがある。おそらく県庁所在地の百万石市の耕平とN市の間で交わされる情報交換を怖がり、先手を打ってエクスキューズしてきたのだ。
並山の突然の訪問から一か月後、耕平が昔からいけ好かない野郎と嫌っていた山縣秀樹が不意に役所に現れた。それも何もコンタクトも取らず、不意に現れたのがいかにもわざとらしかった。
山縣は帰りがけ、偉そうにタバコを吹かながらさり気なく耕平に鎌をかけてきた。
「今、会社で石川さんが社長から嫌われちゃって嫌われちゃって、もうたいへんで」
耕平は山縣がわざわざここまで来て、何でそんな話をするのか疑問に思ったが裏があると思った。きっとこれは何かの布石だろう。
「それから、言っておきますけど今は経産省の若い連中とはまったく付き合いなんか、ありませんからね」
耕平はいた頃は経産省の役人と飲む機会があった。でも、今はないから経産省にルートなんかあっても無駄だと言いたいらしい。次に山縣が意味深長な言葉を投げかけてきた。
「そうそう。今後、郡上さんが経産省に出向するようなことあるんでしょ?」
これこそが本題で、山縣(会社)のもっとも聞きたかったことなのだろう。
「よくわかったね。その通りだよ。でも、その時は絶対に容赦しないから覚悟してろよ」
入庁後、すぐ他の機関に出向することなどはありえないのだが、耕平は釜を掛けてきた山縣を、逆に思いっきり焚きつけててやった。
山縣が一瞬、動揺した素振りを見て耕平はほくそ笑んだ。
(これで、山縣がオレの思い通りに動いてくれれば申し分ないんだけど)
山縣は翌日出社すると即、斉藤から社長室に呼ばれた。
斉藤は山縣を応接室のソファーに座るよう促すと単刀直入に切り出した。
「それで、アイツの様子どうだった?」
「市役所では浮いてる感じでした」
「やっぱりそうか。協調性のない郡上がこのまま役所を辞めてくれれば助かるんだが」
山縣も上役に取り入ることだけは上手い、万事抜け目のない男だ。
「ところで、郡上が来年、経産省に出向してくるようなことはあるのか?」
「それが、どうやらあるらしいですよ」
「本当か? あの野郎、やっぱり来るつもりなのか?」
「経産省に出向したらその時は容赦しないから覚悟してろよとか、息巻いていましたよ」
山縣は耕平の思い通りの仕事をしてくれた。
斉藤はその日、とうとう一睡もできすに朝を迎えた。
耕平は百万石市にいても真知子とは定期的に連絡を取り合っていた。
ある日、帰宅後にスイミングクラブから帰ってきて一息ついていたところ、真知子から電話が掛かってきた。
「真知子さん、こんな夜更けにどうしたの?」
「郡上さんに是非、伝えなきゃいけない話があって」
「面白い話なら聞くけど」
「郡上さんが辞めた後、会社は郡上さんの穴埋めのために社員を一人採ったのよ」
「よかったじゃん」
「ところがその人、一級建築士の資格があるんだけど、まるで仕事ができないらしくて」
「それで?」
「半年立たないうちに辞めたわ」
「それはお気の毒な話だね」
会社には研修制度はおろか、仕事を指導してくれるような人間も一人もいない。中途採用の人間が即戦力になることは難しいだろうと耕平は思った。
真知子は話を続けた。
「それから、渡辺がとうとう会社辞めたわよ」
「その話なら並山から聞いたよ。随分、いい訳じみたこと言ってたらしいね」
「渡辺は郡上さんひとりに責任擦り付けて辞めさせたことで急に社内での立場が悪くなって、泣く泣く独立開業する羽目になったらしいわ。この前、開業の挨拶がてらに会社に来たんだけど随分、しょぼくれていたわ」
「その話、もっと詳しく聞かせてよ」
「渡辺はどうやら仕事がなくて困っていたので、斉藤が外注先として仕事を投げ与えてやっているみたいなんだけど惨めよね。散々、会社では威張り散らしていたのに」
「奴はロクに仕事なんてやっていないから、独立しても上手くいかないだろうね」
「斉藤と応接室で話していたけどお茶なんか出してやるつもりなかったから出さなかったのよ。そしたら、 “ここの会社はコーヒー一杯も出ないの?”だって。笑わされるわよね、よっぽど、あんたに出すコーヒーなんかないわよって言ってやりたかったわ」
「大切なお客様なんだから、コーヒーくらい出してやんなきゃ駄目だって」
耕平が笑いながら言うと真知子も大笑いした。
渡辺の会社は都内の下町のショボい雑居ビルの二階にあるという。一階は牛丼屋らしい。耕平は渡辺の現在の凋落ぶりを聞いて溜飲を下げた。真知子はその後も、社内の貴重な情報を耕平にもたらしてくれた。
季節は巡り、いつのまにか十月になっていた。
耕平はその日、商工会議所の職員や地元商業者とともに先進商業施設の事例研究のため横浜に視察に行くことになっていた。
久々の上京であるが、耕平はこの機会をずっと待ち続けていた。東京に出張の際は必ず、会社を訪れようと考えていた。幸い、最終日は羽田空港集合の午後三時まで自由行動だったため何のお咎めもなかった。耕平は横浜から都内に出向き、いつも自分がやられているように不意打ちに会社に現れた。
会社のあるオフィスに入ると大きな声で挨拶した。
「毎度、ご無沙汰していまーす。郡上、ただいま参上いたしました!」
目が点になるとはこのことだろう。皆が一斉に耕平の声のする方向を振り返ってみた。真知子が耕平に声を掛けた。
「あら、郡上さん、お久しぶりね、お元気でした?」
真知子だけには昨日、来社することをすでに伝えてあるから万事、打合せ通りだ。耕平はあの時の越中のように、斉藤がいる社長室に一目散に進んで行った。
「社長、ご無沙汰しております。今日、仕事でたまたま上京したので顔を出しました」
耕平は慇懃に名刺を差し出し、勧められない前に応接室のソファーに腰を下ろした。
「会社、たいへんそうですね。なんか、もう火の車って感じで」
斉藤は一瞬不快そうな表情を見せたが、耕平の前ではけっして弱みは見せない。耕平を辞めさせた後、仕事のできる社員がいなくて困っていることを言ってしまえば、みすみす自分の非を認めることになる。それを悟られないように余裕の表情を見せている。
耕平は話題を変えた。
「しかし、最近は第三セクターで不祥事が続いていますね。ウチの市役所でも最近、市が出資した会社が粉飾決算をしていて、それがバレて、たいへんな騒ぎだったんですよ」
斉藤はいきなり放たれた矢に驚きを隠さないのか、目を白黒させている。
しばらくして「失礼します」とドアをノックする音がした。
真知子が颯爽とした表情でお茶を運んで来た。
「ありがとうございます。福田さん、僕がコーヒー党じゃなくてお茶好きなこと、ちゃんと憶えていてくれたんですね。ヒデキじゃなかった、コウヘイ感激で~す!」
耕平がお道化て見せると、真知子は含み笑いをしながら退室していった。
「しかも、会社で粉飾決算していたことが内部告発でバレて、社長がしょっ引かれて有罪判決を受けて刑務所にぶち込まれたんですよ。でも所詮、ションベン刑だから半年で出所してきたんですけどね。マジで怖い話ですけど、こんな話結構、身近であるもんですね」
斉藤は憮然とした表情で耕平の話を聞いている。
「でも、まだ話に続きがありましてね。そいつ、出所してきて三日後に心筋梗塞で急死しちまったそうです。そうしたら、そいつの葬式、誰一人として行かなかったんですって。元々、能力も人望の欠片もないクズ野郎でしたから、まあ当然なことなんですけどね」
斉藤の表情が一瞬、歪んだようにみえた。もちろん全部、耕平の作り話だ。しかし、ダメージを与えるには十分だったようで斉藤は身を震わせている。すべて身に覚えのあることばかりだ。
耕平の担当する案件で、架空の利益を出すため経費を一年間先送りされたことも耕平は全部知っているし、それを裏付ける資料もすべて残してある。耕平は散々シミュレーションした通り話すと、お茶を一気飲みした。
耕平はわざとらしく時計を見ながら言った。
「あれ、もうこんな時間か。これから経産省に顔を出さなきゃいけなんですよ。室長に呼ばれていること、すっかり忘れてた。ウチの市役所から出向している竹下にも挨拶しなきゃいけないし。ご多忙の中、すっかりお邪魔してしまいました。それでは失礼いたします」
耕平は頭を掻きながら、社長室を退出した。
改めて車内を見渡すと落ち着きのない様子の水口が目に入った。
その時、耕平の携帯電話が突然、鳴った。
予め、大学時代の友人にこのタイミングで電話を掛けてくれるように頼んであった。耕平の芝居は堂に入っていた。
「もしもし、郡上です。お疲れ様です。えー、やっぱり監査入っちゃうの? それはたいへんだ。それじゃ、依願退職ぐらいじゃ済まないでしょ。粉飾は犯罪だからね。やっぱり逮捕は免れないんじゃない。了解、了解。これからすぐ参ります」
耕平は周囲に聞こえるように大声で応対した。
耕平の一人芝居に水口の表情が凍り付くのがわかった。耕平はそれから咄嗟に並山の姿を探した。
会って、先日のお返しに「お顔だけでも見たくて」と言うつもりだったが、あいにく不在だったので、当てつけ承知で並山の机に自分の名刺を置いてきた。耕平は真知子に挨拶する振りをしながら、水口に強い視線を送った。
耕平が帰った後、水口は間違いなく名刺を見に来るだろう。そこには紛れもない百万石市商業振興課の名前がある。それを見た水口は青ざめ愕然とするはずだ。来年、耕平が経産省に出向して来るのではないか、あるいは並山たち社員と組んでクーデターでも起こすのではないか、人間一旦、疑いの気持ちを持つと疑心暗鬼の気持ちが一気に膨らみ加速してしまう。それこそ耕平の狙い通りである。
斉藤は耕平と対面している間、ずっと生きた心地がしなかった。
越中はヤンキー体質で何か言えば逆らってきそうだが郡上は昔から従順で大人しかった。越中が耕平の首を締め上げていた時、斉藤は実際は見ていたにもかかわらず、面白がってニヤニヤしながら傍観していた。何より、耕平のようなクソ真面目な人間はいじめ甲斐があった。
おそらく耕平にはずっと、自分の後ろに越中の背後霊が見えていたのだろう。しかし、今は逆に毎月、会議で会う竹下の後ろに耕平の影がチラついて見えてしまう。耕平が竹下にどこまで話しているか考えると、今後も夜も眠れなそうにない。
過去に耕平にやってきた数々のパワハラ、嫌がらせ、越中の暴行を見て見ぬふりを決め込んでいたこと等々。それを経産省で洗いざらいぶちまけられたりでもしたら...。
それどころか、耕平が来年、経産省に出向してくるかもしれない。そうなれば定例会で毎月、顔を合せなければならない。文字通り針の筵だ。その時は立場が完全に逆転してしまう。今まで虫の居所が悪かったり、気まぐれでいじめ抜いてきた耕平が今度は自分をやっつける側に回ってくる。斉藤が穏やかな気持ちでいられるはずはなかった。
耕平が帰った後、斉藤は水口を即座に社長室に呼びつけた。
「お前、どうするんだ? 郡上が経産省にチクるかもしれないぞ。粉飾はオレが命令した訳じゃない。お前が全部一人でやったことなんだから責任はお前が取れよ」
水口は激昂した斉藤に、一言も反論することができなかった。
(粉飾決算はそもそもあんたが命令したことじゃないか? 今更、自分だけ逃げるつもりか?)
水口は本音ではそう言いたかったが、社長の言うことには逆らえなかった。
水口は根がサラリーマン気質にできている以上、目上の人間には盾を突くことができなかった。渡辺は耕平に責任を擦り付けて辞めさせた後、会社に居づらくなり独立と称して泣く泣く会社を辞めた。今後、何かトラブルでもあれば矢面に立たされるのは自分しかいなかった。水口は元々電機メーカーの営業マンで街づくりのノウハウなど欠片もない。それを上手く斉藤に取り入って、出向者から取締役まで取り立てられた恩義がある。
耕平がいない今、中途採用の社員は全員が経験、実績、ノウハウともない素人同然の者ばかりだ。クライアントである市町村からはクレームの嵐、親元の経産省に対しても仕事の進捗状況なども十分な説明ができていない。まさに前門の虎、後門の狼の状態では水口にはもはや逃げ場がなかった。そこに、耕平が辺りをうろついている。それどころか来年は経産省に来るかもしれないという。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
斉藤は翌日、常務の岡本を社長室に招いた。
岡本は二年前、政府系金融機関から出向してきた茶坊主のイエスマンだ。
「お前を来年、社長にしてやる」
「随分、急な話ですね。何かあったんですか?」
「オレは来年の三月末付で社長を退任することに決めた」
もっともらしい話だが、斉藤にしてみれば自らの保身を考えた上での決断だった。来年三月になれば耕平が経産省に出向してくるのは間違いない。その前に、敵前逃亡してしまおうと考えた。耕平が来れば過去の悪事がすべてバレてしまう。そうなれば三千万円以上の退職金がフイになるかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
「オレも来年で七十歳だ。最近は体がきつくて仕方がない。でも、お前にとっても悪い話じゃないだろ?」
岡本は突然の申し出に二の句が継がない。
「ところで、社長になった暁には真っ先に手掛けてもらいたいことがある」
「それは何ですか?」
「社員のリストラだ。それと会社清算の手続きを早急に進めてもらいたい」
岡本は事態がまだよく呑み込めていない。
「ウチの会社はもう役割を終えた。取り合えず、社員をどんどん辞めさせてほしい」
会社は資本金はあるものの、放漫経営の上身の丈に合った経営戦略を立てたため、またクライアントの信頼もない上に利益も出ていない。斉藤は岡本に全部責任を擦り付けて自分だけ満額の退職金を手に入れるつもりだった。会社が清算される段階で赤字なら、その時の社長が責任を取らされる。ただ、一つ前の社長なら傷を受けることもなく、満額の退職金を得ることができる。斉藤はそのために体よく岡本を利用しようと考えた。
「心配するな。お前の後釜の社長もちゃんと考えてあるから」
「お前は経産省の手前、真面目に仕事をしている振りをすればいいだけの話だ。利益を上げるために懸命に仕事をしたのですが、社員が定着せず離職が進みこれ以上、業務が遂行できませんとか何とか、適当なことを言っておけばいいんだよ」
「そうなれば民間から社長を派遣しましょうとかいう話に必ずなるから、お前に実害は及ばないし、退職金だって満額もらえるから、ひとつ引き受けてくれないか?」
斉藤のえげつなさを知っている人間ならこんな嘘くさい話信じられるわけはなかったが、岡本は甘言に乗せられてあっさり申し出を受託してしまった。
斉藤は入念に、自分に都合の良いシナリオを考えた。
(こちらから先手を打とう。耕平が経産省に来る寸前に自分が辞めてしまえば問題ない。不都合なことは闇から闇に葬ることができるし、万が一発覚しても責任は岡本にすべて転嫁できる)
真知子から耕平のマンションに電話が掛かってきたのは耕平が上京した三ヶ月後だった。
「郡上さん、会社が今、たいへんなことになってるわよ」
「今度はどんな面白いことが起きたんですか?」
「中途採用された社員が今、どんどんクビを切られて辞めさせられているわ」
「どれだけ、クビになったの?」
「コンサルティング課にいた社員は一人を除いて全員よ」
「社員不在の会社じゃ、まるで仕事にならないじゃん」
「その代わり、毎日外注している派遣会社の名前も知らないような人たちが入れ代わり立ち代わり来て、訳の分からない仕事をしているわ」
耕平は気の毒だと思ったが、耕平が辞めさせられた時、高みの見物で薄笑いを浮かべていた中途採用の社員たちの表情を思い出すと思わず笑みが零れてしまった。
「それどころか、コンサルティング課の社員以外も来月から一律、給与十パーセントだって。どうやら、それが嫌なら辞めろってことらしいわ」
「何、それ?」
耕平が笑いを堪えながら話し掛けた。
「あと、この前、水口が取締役から顧問になったのよ」
「そうか。たしかに取締役を辞めれば退職金が出るからね。退職金だけもらって責任逃れするつもりなのか。でも、水口なら考えられないことじゃない」
「正社員はいない、役員は全員逃亡じゃ、会社崩壊は時間の問題よ」
「女房、子供抱えた働き盛りの連中が馘首されるのは可哀そうだけど、真知子さんはもういいじゃん。定年までそんなにないわけだしさ」
耕平は冗談交じりに軽口を叩くと真知子が話を続けた。
「斉藤は日本開発銀行から来ている岡本常務を後継者に指名して、来年三月一杯で退職するつもりらしいわ。法外の退職金だけもらって、タイミングよく逃げる目論見みたい」
「相変わらず汚ねえ野郎だな。でも、奴の考えそうなことではあるね」
耕平が会社を辞めてからわずか三年で、正社員は山縣を除いて全員がクビになった。もはや会社の体だけはなしているものの大海原で漂流する沈没寸前の船だった。そんな中、斉藤だけは上手いこと三千万円以上の大金を手に入れただけでなく、自らの責任も逃れた。
耕平は夜、自宅マンションで真知子から入手した社員名簿を見ながらニヤニヤしていた。
まず、手初めに並山政彦の自宅に電話することにした。
「はい。並山ですが」
「私、以前会社で同僚だった郡上と申しますが、ご主人様はいらっしゃいますか?」
女房が電話に出た後、並山が不機嫌そうに電話に出てきた。
「並山ですが、何か?」
「ご無沙汰しています。郡上です。先日はわざわざ百万石市までご足労いただきありがとうございました。ところで、先日妙な噂を耳にしたもので電話したんですけど。並山さんが会社をお辞めになったって聞いたものですから、お声だけでも聴きたくて」
並山が意気消沈している姿が手に取るようにわかった。
「それで、どうして辞めちゃったんですか?」
「ああ、その通りだよ。あんな、・・・会社、・・・辞めてやったよ。岡本の馬鹿野郎が、・・・アイツがいる限り、・・・会社は、・・・もう、・・・駄目だ・・・」
それから耕平は並山から会社への恨み節を延々と聞かされる羽目になった。
真知子の話では耕平が辞めた後、会社で一番手に躍り出たと勘違いした並山が「主任研究員という役職ではいい仕事ができない。だからオレを課長にしろ」と、上の人間に「課長」の役職を強く迫ったそうだ。とんだ身の程知らずの話だと耕平は思ったが所詮、コイツも地位や名誉が欲しかったのだろう。しかし、世の中はそう甘くはなかった。並山の申し出はあっさり却下された上、逆に退職を迫られたという。耕平はいい様だと思いながら、タメ口に切り替え話し掛けた。
「並山さん、斉藤さん、斉藤さんって、野郎に取り入って結構上手くやってたじゃん。辞めなきゃよかったのに。でも、こんな不況な時代に独立するなんて勇気あるな。尊敬するよ。でも、もうクライアントとか、決まっているんでしょ?」
「まだ、決まっていない・・・・・・」
並山は絞り出すように答えたが、並山の年齢を考えたら再就職は難しいと思った。
次に電話したのは耕平がクビにされた時、ニヤニヤ薄笑いを浮かべていた石川明だった。
「石川さんのお宅ですか?」
石川は独身のひとり暮らしだから直接、本人が電話に出てきた。
「郡上だけど、妙な噂を聞いたもんだから」
石川も早くも電話を切りたがっているのがよくわかった。先日、山縣の話でも石川は耕平の辞めた後、斉藤に滅茶苦茶、嫌われていると聞いている。
「何か、会社辞めたって聞いたもんでさ、どうしてるかと思って」
馘首された石川はぐうの音も出ないようだ。耕平はさらに畳み掛けた。
「でも辞めたって言ってもまさか、オレみたいに徹底的に嫌われた上、言い掛かり付けられてクビになった訳じゃないんだろ?」
噂では石川は耕平無き後、斉藤の新たな標的にされ一身に誹謗中傷に晒されたのだという。
斉藤という男は常に誰かをいじめていないと気持ちの安定を保てない不思議な性格の持ち主だ。石川は斉藤の新たな憂さ晴らしの対象ににされたのだろう。また、社員をバンバン首にすることは会社を清算させることにも繫がるし、耕平に対するエクスキューズにもなるからまさに一石二鳥だった。
石川はそれでも最後は気丈に振る舞った。
「オレは並山や山縣のように上の人間に媚びたり、取り入ったりできない質だから」
馬鹿な事言うな。斉藤に取り入った並山だってクビになったじゃねえかと言いたい気持ちを抑えて「それじゃ、精々頑張ってね」と言って電話を切った。
三番目に電話したのは総務課の高山豊だった。
「高山さんのお宅ですか?」と言うとあっさり本人が出た。
高山は数年前、結婚して今は二児の父親だ。高山は元々コンサルティング要員として採用されたが、能力がないのがバレてすぐに総務課に異動になった。元々、会社にはいらない人間である。
耕平は単刀直入に話し始めた。
「高山さん、会社辞めたって話を聞いたんだけど」
「そうなんですよ。会社はリストラの嵐で、もうどうにも止まらないんですよ」
高山はあたかも他人事のように話し始めた。
「リストラ勧告を受けただけで辞めちゃったの?」
耕平は大方の事情は真知子から聞いて知っている。
真知子の話によるとコンサルティングの社員がバンバン首を切られているので、総務課の高山にもリストラのお鉢が回ったきたという。ある日突然、「総務からもう一度、コンサルティング課に帰ってこい」と言われて、仕事のできない高山は泣く泣く辞表を出したという。能力がないことを知っているうえ、敢えて配置転換をするのは明らかな嫌がらせ、かつ会社の思う壺だった。
「郡上さんなんて、まだいい方ですよ」
「はあ? どういう意味?」
「石川さんなんて、社長から毎日のように『目障りだ、まだ会社に居るのか』とか、『コイツ、またサボっていやがる』とか聞くに堪えないような酷いこと言われ続けてましたよ」
「たしかに並の神経じゃ、そんなこと言われたら持たないよね」
「それに私たちなんて送別会もなければ退職の挨拶もロクにさせてもらえなくて、辞める日に社長室でネームが入つた万年筆貰って、『長い間、ご苦労さんでした』だけで終わりですからね」
「それで、これからどうするの?」
高山は実兄が医師で今度開業するらしい。今後はその手伝いをするような話をしていた。
耕平が最後に電話をしたのは垣内だった。
垣内は山縣と同じように会社にしぶとく残っていた。事情を知っている耕平は今までと少し趣向を変えて話し掛けた。
「垣内さんのお宅ですか?」
「はい、そうです」
「郡上ですが、お元気ですか?」
垣内は電話を切りたそうにしているのがわかったが、やがて渋々口を開き話し始めた。
「・・・・・・あんな会社、もう辞めてやったよ」
「どうして?」
「どうもこうもないよ。いきなり、『今年一杯で辞めてくれないか』って言われて。『もし辞めなければ給与十パーセントカットするから』なんて、そんな言い草あるかよ」
並山の時と同じように垣内の愚痴は延々と続いた。ある時から社員給与十パーセントカットの話は、たしか真知子から聞いていた。
物は考えようだ。ロクに挨拶もさせてもらえず、一方的に次々と馘首されていく中途採用の社員たち。しかし、彼らが上役に気に入られるように陰で運動していたり、見えないところで耕平の足を引っ張ったり評判を貶めたりしていたことを耕平も昔から気付いていた。
それにしても実績もノウハウもない人間たちが挙って、クビになっていくのを見るのは快感で留飲が下がる思いだった。耕平をチクった加藤史恵も新しい社長に疎まれて即刻クビになったという。
結局、最後まで会社に残ったのは耕平のいる市役所まで探りを入れに来た山縣だけだった。しかし、船底に大穴が開いた状態の会社では遅かれ早かれ、その船も沈むことは間違いなかった。耕平はタイタニック号の沈没を間近で見るような心境で、これから会社に起きそうな事態を第三者の目で興味深く眺めていた。
耕平は渋谷で真知子と待ち合わせ、その足で通り沿いのレトロな喫茶店に入った。
「すっかりご無沙汰しています。この度はたいへんお世話になりました」
「会社は遂に、今年の十月に清算されることに決まったらしいわ」
「せっかく肝いりで作った会社なのに、たった十年で会社清算とは切ない話ですね」
耕平は笑いながら答えた。
「仕方ないわよ、役員の連中は全員悪いことしてるんだから」
「でも粉飾の件だけは結局、闇から闇に葬られちゃいましたね」
「斉藤は最後の最後まで、一貫して卑怯な男だったわ」
真知子は紅茶を一口、口に含んだ後、また話し始めた。
「そうそう。あれから、たいへんなことがあったのよ」
「まだ、何かあったんですか?」
「水口が自殺を図ったのよ」
「えっ? マジな話ですか?」
「粉飾決算の責任はお前が取れって斉藤から迫られて、それを随分苦にしていたみたい。追い詰められて大量の睡眠薬を服用して自殺を図ったらしいけど結局死に切れず、今はどこかの病院に入院しているらしいわ」
「いつのことですか?」
「取締役から顧問になってすぐの頃だったかな」
「人間、疑心暗鬼になるのが一番怖いですもんね。たくさん退職金ももらったのに悪銭身に付かずを自ら実践したようですね」
取締役を退任すると一時退職金が出る。水口の取締役在任期間は五年程度だが、真知子の話によると一千万円近く支払われたという。
「自業自得なんだけど、何だか哀れな結末ね。散々うまい汁吸ってきたから。渡辺だって独立したものの結局上手くいかず、数年で会社を畳んだそうよ。あと、斉藤の後を受けて社長に就任した岡本なんて、会社の業績を悪化させた責任取らされて退職金は大幅にカットされて満額出なかったらしいわ。その後、斉藤の目論見通り会社の立て直しに民間企業から新しい社長が来たんだけど、やっぱり上手くいかなくて予想通り、会社清算よ」
「結局、斉藤の一人勝ちか。えげつない野郎は最後の最後までえげつないな」
「でも、斉藤だって最後まで逃げ切ったつもりでいるらしいけど、ああいう人間はけっしていい死に方はしないわよ」
「是非、そう願いたいね」
真知子も悪を憎む気持ちは耕平と同じらしい。
耕平は会社が存続する限り、本当の意味でリベンジはできないと考えていたので、会社が消滅することは溜飲が下がる思いだった。
会社はこの世から永遠に葬られたのだ。
真知子はたしか群馬の出身だった。耕平は真知子の今後が気に掛かった。
「それで、真知子さんはこれからどうするの?」
「郷里の高崎に帰るつもり。両親は亡くなっているけど幸い、住む家くらいはあるし、今までちゃんと働いてきたから年金だって受給できるから大丈夫よ」
「それがいいよ。これからは真知子さんがやりたいことをやって生きればいいよ」
耕平は真知子という五十代の女性に今は感謝の気持ちしかなかった。
耕平と真知子はある意味、会社では性別や年齢を超えた戦友のような関係だった。真知子はこの先も独身を貫くつもりだろう。耕平はそれも真知子らしい生き方でよいと思った。
「真知子さん、高崎に帰っても元気でね」
「郡上さんも」
耕平は渋谷駅の前で、握手して真知子と別れた。
耕平は、真知子とは二度と会うこともないだろうと思った。
会社は真知子の言葉通り、その半年後に清算されて世の中から消滅した。耕平は会社にリベンジを果たした思いだった。耕平は百万石市を三年で退職して実家に戻った。今度こそ独立するつもりだった。
百万石市を辞めた後、耕平がかつてSCの仕事をしていたK市の部長から突然、耕平のメールアドレスにメールがあった。
耕平は市役所を辞めた後、ビジネス書を上梓した。おそらく、その本の巻末に記載してあったメールアドレスを見て耕平にメールしてきたのだと思った。
「郡上さん、ご無沙汰しております。K市の深村です。憶えていますか? K温泉駅前のSCの件ではたいへんお世話になりました。ところで、当市では近年、商店街でも大きな危機が迫っています。商店街活性化が急務となっております。そこで是非、郡上さんのお力をお借りしたいと思います。もしお仕事を引き受けていただけるのでしたら郡上さんの地元の横浜まで打ち合わせに参ります。ご検討のほど何卒よろしくお願い申し上げます
K市企画部長 深村」
会社を辞めたのはもう五年以上も前のことだ。
まさか、今頃になってこんなメールが来ると思わなかった。耕平のことを憶えていてくれたのだろう。しかし、耕平は街づくり系の仕事は二度とやらないと心に決めていた。独立したら自分だけのオリジナルの仕事をしてみたい。そう思っていたので断りのメールを入れた。ただ、一人でも自分の仕事を評価してくれた人がいたことは素直に嬉しかった。
耕平はメールを送信した。
「深村さん。メールありがとうございました。商業振興課の方もお元気ですか? K市のプロジェクトではこちらこそ、たいへんお世話になりました。私どもの会社は残念ながら十年の月日を経てこの秋、清算いたしました。私もコンサルタントとして独立することにしました。ご存じのように、街づくりには数年ではなく気の遠くなるような時間が必要となります。サラリーマン時代なら考えたかもしれませんが、今の私にはあまり時間が残されていません。今後は自分の好きなことで独立したいと思います。私にはとてもありがたいお話ですが、今回の話はご遠慮させて頂きたいと存じます。 郡上耕平」
耕平は返信メールを送った時、今後街づくりの仕事をすることがないことを対外的に公言したらもう後戻りもできないと思った。しかし、なぜか気持ちがすっきりした。
耕平は独立する前に、どうしても鎌倉にある郡上家の墓参りに行っておきたかった。
十一月下旬の暖かな日だった。路線バスで霊園前の停留所で降り、耕平は広大で迷路のような霊園に入っていった。
墓参りに来るのは久し振りで、家の墓がある場所すら定かでなかったが何とか墓前まで辿り着くことができた。手桶に水を汲んで墓に柄杓で水を掛けた。線香に火を付けたが、今になって墓前に備える花がないことに気が付いたが後の祭りだった。
耕平は独身で子供もいないので、先祖の墓に入るつもりはない。
耕平の代で家は潰えるし、墓には永代使用料や管理料があり、滞納するといずれ追い出される。どうせ追い出されるならコバルトブルーの沖縄の海に散骨してもらいたいと日頃から大学時代から付き合いのある友人たちに話している。
耕平は墓の下で眠る父、恭介のことを思いながら考えていた。
(最初は親父に突然、死なれて随分恨んでいたんだよ。オレのアメリカ行きもダメになって、他人が行くようになってさ。でも、あの日、あの時、親父が亡くなってくれなかったらオレは仕事を干された上、会社にも居られなくなっていたかもしれなかった。K市のショッピングセンターのプロジェクトを最後までやり遂げられたのは全部、親父のお陰だよ。親父が命を犠牲にしてオレを守ったくれたんだ。親父、まるで特攻隊みたいだったけど、結構カッコよかったよ。生前はあんまり仲良くなかったし誤解もたくさんしてたけど、最後は親と子の関係になれたと思っている。酷い目に遭わされた会社にもやっとリベンジを果たすことができたよ。Wリベンジが遂にできたよ)
耕平はデイパックから来る途中にコンビニで買った缶ビールを取り出した。
蓋を開けると勢いよくビールが吹き出した。耕平は墓石の上からビールを注いだ。
(親父はもう二度と酒を飲むことができない。オレと酒を酌み交わすこともできないから、これが最後の酒だ。親父、存分に味わってくれ!)
耕平は墓参りに来るのはこれが最後だろうと思った。
墓を後にして歩き出した時、耕平はふと思い出した。
高校生だった頃、ちょうどこんな小春日和の日に両親と姉の家族四人で墓参りに来て、帰りに散策しながら鎌倉駅まで歩いたことがあった。
耕平は今日もこのまま、鎌倉駅まで歩いていこうと思った。
鎌倉駅までは結構、長い時間が掛かると思いながら。
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