かにのおくすり

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 夏風邪をひいた。  数年前から流行している例のやつではないらしい。なにやら薬を処方されたはいいものの効いているそぶりはない。同居しているカニが水槽の中で泡を吹きながら「うつすなよ」と言ってくる。 「甲殻類にうつるものじゃない」 「わからないぞ! かになんか弱々しいから、そんな風邪をひいたらすぐに死んでしまう」 「死んだら蟹雑炊にして食ってやる」  かには本気で嫌そうな顔をして岩の下に隠れてしまった。僕は仕方ないのでベッドでゴロゴロしながらぼんやりと天井を眺めることにする。食欲もない。 「水分はとったのか」  かにが岩の間から顔を出し、鹿爪らしい顔をする。かになのか鹿なのかなんてバカなことを考えている間に、すうっと睡魔に引き摺り込まれる。遠くで慌てたようなかにの声がした。  顔にバシャンと何かがかかる。甘ったるくてイオンな味。  寝耳に水ではない、寝耳にスポーツ飲料だ。  鼻に入って咳き込んだ。なんだなんだ!? 「ごめん。うまく運べなかったんだ」  かにが申し訳なさそうな顔をして枕の横でちょろちょろ右往左往した。ハサミに蓋が挟まっている。横に倒れたペットボトルからドクドクとスポーツ飲料が枕に染み込んでいく。 「わあー」  棒読みみたいな間抜けな声が出た。かにはふと止まってやはり鹿爪らしい顔をする。 「枕に全部しみこんだな。よし、仕方ない。ちゅうちゅう吸うといい」  寝ながら水分補給できるし、とかには嬉しそうな顔をした。 「人間はそんな水分の摂り方しねえよ」 「めんどうくさいな」  かにが顔をしかめる。ちりんとどこかで風鈴が鳴った。 「ところで熱はどうだ」 「変わらない。喉も痛いし頭も痛い。こめかみが割れそうだ」 「なるほど、あたかも大きなお化け蛸に吸いつかれたように?」 「なんだそれ」 「かにのことわざだよ」  ふーむ、と言ってかには少し黙り、それから「よし」とはさみを振り上げた。 「薬をとってきてやろう」 「さっき飲んだよ」 「ニンゲンのじゃない。かにの」  そう言ってかには玄関の方に横歩きしだした。 「かにの?」 「そう、よく効くよ」  すささささと素早い動きでかには部屋を出ていく。水槽では餌のいりこの頭が水に揺れていた。また好き嫌いして……。  1時間ほど経ってようやくかにが帰ってきた。 「心配したよ」  そう呟く僕に元気はほとんどない。枕はスポーツ飲料でべちゃべちゃだし、頭も痛いし、喉も痛いし、熱でうまく動けないし。 「ひどいな。さあ飲め。薬だ」  かには僕の鼻のあたりまで登ってきて、ハサミで挟んで薬とやらを見せてくる。  くさい。  苦そう。  なにこれ。  僕の抱いた感想はその3つだった。これを飲むのは無理だ。腐ったイソギンチャクに見えた。 「なに、効くんだぞイソギンチャク」  当たっていたらしい。  僕は眉を寄せた。 「無理だよ」 「好き嫌いを言うな」 「きみこそ。いりこ、食べ残しただろう」  うっとかには黙り、それから「かには」と呟いた。 「かになら食べられるのか」 「かに……?」 「そうだ。今年のはじめ、かにを食ってきたと言っていただろう」 「ああ。うん、城崎まで行ってね。かにかに超特急に乗って行ったんだ。美味しかったよ」  それから少し言いにくいが、いつまでも黙っておくのも気が滅入るので付け足した。 「きみにもお土産やっただろ。かにパウダー」 「んっ、あれ、かになのか! かにに、かにを食べさせたのか!」 「興味本位だよ」 「ひどい、最低だ! かにごろし!」 「磯では共食いしてるじゃないか」 「そうだけども」  むう、とかには泡を少し出して、それから気を取り直したように言った。 「まあ、なんにせよ、きみはかには好きなんだな。食べ物として」 「まあ、きみが挟んでるその薬よりは」  ふーむ、とかには言ったあと、その薬をもぐもぐと食べ始めた。器用にハサミが動く。 「きみが食べるのかい」 「少し黙りたまえ。ああ、薬が五臓六腑に染み渡る!」 「かにに五臓六腑があるのかい?」  かには「ないかもしれない」と鹿爪らしい顔をしたあとに、ぐっとそのハサミを自らの甲羅に挟んだ。 「か、かに? 何を……」 「ことここに至れば致し方ない。薬効成分の染み渡ったこの蟹味噌、この蟹味噌をきみが食らうといい!」 「何を言っているんだ、かに!」  僕は僕の鼻の上で自らの甲羅を引きちぎらんとしているかにを必死で止める。 「止めてくれるな! かつて磯で巨大なヤドカリに食われかっていた僕をきみは救ってくれただろう。男一匹、一宿一飯の恩を返すのはいまこのとき!」 「一宿一飯じゃない、二年くらいきみここにいるだろう!」 「ええい男が細かいことを! ふんぬうううう」 「かにー!」 「うおおおおお」  ばちぃんと甲羅が弾け、顔の上に蟹味噌が散乱した。鼻の中に蟹味噌がずるりと入ってくるのに構わず、僕は腹の底からかにの名前を呼ぶ。ああどうか神様、この友情に厚いかにを天国に……星座にして……いやもう蟹座あるか。ならどうしよう、ええと……なんも思いつかん……。  とにかく、かによ、永遠に。  フォーエバーかに。  安らかに、かに。 ◇◇◇  ふと目を開く。  やけに喉が渇いていた。ベッドの横、棚の上に置いていたスポーツ飲料をごくごくと飲み干した。  元の位置にペットボトルを置く。  その奥には小さな水槽がある。  かにの水槽だ。  石の間からかにが顔を出した。  とても元気そうだが、何を考えているかわからない顔をしている。  まあ、かにの表情や感情なんて分かりようがない。  というかないかもしれない。  僕が二年前に磯で助けてやったことなんか、記憶すらしてないだろう。かにめ、またいりこを残しているぞ。 「……それにしても、変な夢見た気がするな……」  内容は全く覚えていない。  枕は汗でべっちょりと濡れている。軽く背伸びをした。かなり楽になっている。 「やっぱ病院で薬もらうと効くな……」  僕は呟きながら窓の外を見る。  青い空に入道雲がもくもくと湧き出ている。  遠くでちりんと風鈴がなって、僕はなぜだか鼻の奥で変な匂いがするなとぼんやり思う。  蟹味噌みたいな匂いがする。  薬の副作用だったら嫌だなあと思いながら、もう一度寝るべくベッドに横たわった。  水槽の中で、かには相変わらず読めぬ顔をして、石の間、ジッとしているのだった。
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