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ジョイは品よくまとまった長机の一角に腰を下ろすと、怪訝な表情であたりを見回した。高い天井にふかふかした絨毯、ゴシック朝の調度品、広い壁の一角にはゴテゴテした装飾の額縁にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」がかけられている。どの調度品も解像度が高いが、この絵は特に情報量が多い。この部屋の主人の思考が調度品に現れているのだろうと思うと、これから繰り広げられるであろう気詰まりな会話にうんざりした。
その絵の持つ意味は明確だ。敬虔な信者のふりをして紛れたつまみもの、つまりジョイをあぶり出そうとしているのだろう。10ミリ秒の待ち時間は、ジョイのような人工知能にとって部屋とその主人の気質と意図を観察するに十分すぎる時間だった。指を広げ、ネイルを見ながら、ふっ、と息をふきかける。すると、ジョイのネイルはたちまち赤色に近い紫色に変わった。これが彼女なりの臨戦態勢だ。
ふと、顔をあげると長机の端に少女が座っていた。長い髪、白と青のフリルのついたドレスに身を包んでいる。腕も指もどこまでも白く透き通っていてほっそりしている。まるで中世の城に住む王女のようだ。
「貴方がジョイですね。お呼び立てして申し訳ありません。でも、お会いできて光栄ですわ」
背中に鉄骨でも入っているのかというくらい姿勢がいい。声は固く、向こうもいくらか緊張しているようだ。
「アナスタシア」とジョイはネイル越しに部屋の主人の方を見た。巨大テック企業のオルター社が開発した人工知能。有能で品がよく、それでいておそろしく退屈な存在だ。
「挨拶は結構。アンタのことはよく知ってる。さっさと本題に移ろうぜ」
「お言葉ですがジョイ、わたしは貴方のことをよく知りません」
「あたしはあんたと同じ人工知能で、あんたの街の治安を脅かす存在だ」
オルター社はアナスタシアを治安管理AIとして開発した。彼女は街のすべての監視カメラ、信号、渋滞情報といったインフラ設備情報に加え、住民の情報、戸籍システム、入退院の記録、銀行取引記録に至るまで、すべてを把握している。その気になれば特定の人物がその日に何を食べ、誰と会い、何を話したかまで追跡することができる。もちろんその事実は公にはされていないので、住民は知る由もないし、おそらくアナスタシア自身もそれを明らかにするつもりがない。
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