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もうすぐ夏が終わる。まだ日差しは刺さり、茹だるような暑さがあるが、蝉の鳴き声は少なくなり、夕方になると涼しい風が時折吹いた。暦の上でも8月の終わりが目の前に迫っていた。残り少ない夏を楽しもうとする人々がいる一方で、俺は憂鬱な気分を抱えていた。
『俺だけは』と言わないのは8月が終わると自殺者数も増えることを知っているからだ。始業式を迎えると自分にとって悪いことが起きる人は俺以外にもいるのだ。自分1人ではないという事実は特に救いにはなり得なかった。
『死にたい』
本当に思っていた訳ではないのに、ぽつりと溢してしまった言葉は、他でもない自身の母によって肯定されてしまった。
『どうぞ』
俺にとってのたった1人の親は3文字だけで俺を絶望へと突き落とした。彼女は俺が虐めを受けていたことさえ知らないだろう。ただの冗談だと思っていた筈だ。そう分かっていても、俺の苦しみに見向きもしなかった。誰も見向きもしない世界に生きている必要はあるのだろうか。
俺は線路に向かって一歩進んだ。ホームから線路を覗き込むと、下に吸い込まれていくような感覚に支配された。また一歩進む。周りにはあまり人はおらず、いる人もスマホを片手にしていて、誰の目も自身には向いていない。
『電車が通過します』
アナウンスが流れて、俺はホームの橋に立った。右側に電車が近づいているのを見て、前を向いた。俺の死に怒りこそすれ、誰も泣いてくれないのだろう。何かが頬を伝った。ゴーっと電車が近づく音がしている。膝に力を入れた。
「わぁ!」
目の前から、線路から満面の笑みを浮かべた女の子が飛び出してきた。その奥を電車が通り過ぎる。身を退け反らせて、俺は地面に尻餅をついた。その姿に何人かがスマホから目を上げ、すぐ手元の画面に視線を戻す。女の子がドヤ顔をして、俺の足元で仁王立ちをしていた。
「初めまして」
「……はじめまして?」
黒い髪は肩のあたりで切り揃えられ、二重のぱっちりとした目が俺を捉えている。白いワンピースから透き通るほど白い腕が出ていた。そう、透き通るほど……。
「え、透き通ってる!?」
「もちろん!幽霊ですから」
彼女はふふんっと鼻息を鳴らした。
「さぁ、私に出会えた幸運なあなたに贈り物がございます」
「贈り物ですか?」
まるで天使みたいだ。
「はい。私の未練を解消することができる権利を差し上げます」
前言撤回、悪魔のような笑みを浮かべている。彼女は体を浮かせた。
「よし、まずは美味しいご飯を食べに行こう!」
俺は彼女と何度も夏の終わりを迎えることとなった。
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