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名前を呼ばれて、彼は診察室に入った。
「そこにお掛けください」医者が椅子を勧めた。「どうされましたか」
彼は椅子に腰かけると、ためらいがちに言った。
「幻覚が見えるんです」
「幻覚? どんな幻覚ですか」
「恐ろしい幻覚です……」
と、彼は話し始めた。
二日前、彼は美味しいステーキが評判のレストランへ行った。
忙しかった仕事も一段落したので、自分へのご褒美として行くことにしたのだ。
町外れにあるレストランは瀟洒な建物だった。
席に案内されて、暫く待つと望みの料理が出てきた。
彼はステーキにナイフを入れた。肉の切れ端をフォークに突き刺して口に運ぶ。ゆっくりと咀嚼して、口中に肉汁を染み渡らせる。美味しい。成程、ここのレストランのステーキは逸品だ。
彼がいるテラス席を風が通り過ぎた。気持ちいい。目をテラス席の外に転じると、たくさんの緑の葉を纏った木々に囲まれた湖が見える。時折、群青色の湖面の波間から魚が顔を覗かせる。蝶々の群れが木立の間を行き交っている。この美しい風景も料理の味を引き立ててくれるのだ。
彼はしばらく目の前の風景を眺めていたが、また食事に戻った。
ステーキを口に入れた。だが、おかしい。味が変だ。美味しくない。それに牛肉の味がしない。ステーキを見た。どうも牛肉っぽくない感じがするな。確かにビーフステーキを食べていたはずなのだが……。もしかすると腐っているのかも知れない。そう思って、彼は店のスタッフを呼ぼうとした。
しかし、彼はスタッフを呼べなかった。恐ろしいものを見て、体が固まってしまったからだ。
外の景色が変わっていた。群青色の湖は茶色い水を湛えた沼に変わっており、目が一つのトカゲのようなものが、水面から顔を覗かせている。緑の葉を付けた木立の代わりに黒く焦げた木々が地面に突き刺さっている。その間をゴキブリの群れが飛び回っていた。
「それで、幻覚はまだ続いてますか」
彼の話が終わると、医者が尋ねた。
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