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ーー彼は長年、心の病に悩まされていた。
神童と呼ばれるほど賢く、11歳で大学の薬学部に入学して卒業後は新薬の研究に打ち込んだ。
自分が開発した薬で、自らの病を治そうと考えたのだ。
しかし、心の病はじわじわと彼を蝕み続けた。
不調になると集中力が著しく低下し、周囲の人間にひどく当たり散らす。
家族も友人も研究者仲間さえも彼を見放し、男はついに天涯孤独の身となった。
テクノロジーは目覚ましい発展を遂げ、彼の研究もどんどん進化した。
何の感情も持たなくなる薬を開発した時は、薬が切れた時が辛すぎて断念。
前向きな気分になれる薬も作ってはみたが、どうやっても自身の負の感情が混ざってしまい実験は失敗に終わった。
もう何をしても無駄だと匙を投げた頃だった。
以前治験に参加した、若い男が研究所を訪ねてきた。
「前に治験で飲んだ、感情がなくなる薬がほしい」と若い男は濁った目をして言った。
作るのが極めて難しい薬で、数日分しか処方できないと伝えたが男はそれでも構わないと言った。
彼は要望通り薬を若い男に手渡すと、薬を受け取った男はお礼にとケースに入ったカプセルを手渡してきた。
『世の中がより良くなる薬』だと言われて、胡散臭い商人から買ったそうだ。
そのとき言われた『それ相応の副作用もある』という言葉に怯んで、彼はその薬を今まで試せなかった。
「試すか捨てるかはあんたに任せる」と言い残して、若い男は去って行った。
失うものは何もなく、一通りの苦痛を味わい尽くした彼は何の躊躇いもなくその薬を口に含んだ。
何の変哲もない、ただの毒薬かもしれない。
彼は頭の片隅でそう考えていた。
人生の幕を下ろすきっかけを、神が与えてくれたのかもしれないと。
ぐるぐると視界が回り出し、まるで遊園地のコーヒーカップに乗っているような心地がした。
そして、急に世界は暗転。
薬の不思議な効果で、世界は"より良いもの"へと変貌を遂げた。
皆が幸せに暮らす、病も怪我も争いもないこの世界。
その代償として、彼一人だけが病んでいった。
平穏に暮らしたいという彼の望みは思わぬ形で叶い、それと同時に思わぬ形で崩れ去ったのだ。
「自分が変われないなら、周りが変われば良いと頭の片隅で思っていた。私の傲慢さを神は見抜いていたんだな」
彼はそう言うと目の前で苦しげに咳き込んだ。
「ああ、でももう十分だ」
彼のその言葉を聞いて、ふと思い出した。
日中、回収したゴミを運ぼうとしていたときに、彼が居るケースの前に立つ幼い子供がガラスに両手をついて言っていた。
「どうしたの、大丈夫?」と。
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