病める人

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彼は震える細い腕で椅子の肘掛けを掴み最後の力を振り絞って身を乗り出すと ガラスに残された小さな手の跡に、自分の痩せ細った掌をあわせた。 「幸せな生涯だったとは言えないが、幸せの価値を知る最後の人として死ねる」 力無く掠れた声ではあったが、彼は確かにはっきりとそう告げた。 ガラス越しに彼の手に触れようと、考えるよりも先に腕を伸ばした。 幸せの価値とは、いったい何なのか。 少しでも知りたいと思った。 けれど寸前の所で彼の痩せた手は力なく、だらんとぶら下がった。 彼を取り囲む観客の姿を幾度となく観てきたが、誰も彼も物珍しげに彼の姿を覗き込むだけ。 "苦しみ"というものを体感したことがないのだから無理もない。 誰も彼の痛みや苦しみに寄り添おうとはしなかった。 この手形を残した、あの幼い子供ただひとりをのぞいては。 彼は椅子に深く背を預け、ぴくりとも動かなくなった。 貴重な芸術品だった『病みゆく人』は、こうしてただの一人の男の亡骸となったのだった。 僕はロッカー室で私服に着替えると、そのまま職場を後にした。 警備員がにこやかに挨拶をしてくる。 「幸せですね」 なぜだろうか、いつも通りのただの挨拶なのに。 言葉を返すことができずに、苦笑いを浮かべ小さく会釈だけ返した。 美術館を出ると、ひんやりと澄んだ夜の空気が肌に触れる。 ぽつりぽつりと灯る街の灯り、そのひとつひとつに人々の暮らしがあるのだと、急にそんな事が頭をよぎった。 苦しみとは一体、どんなものなんだろうか。 それを知れば、"幸せの価値"というものを理解できるのだろうか。 もしそうだとしたら、僕はこの先一生それを知る事はない気がする。 健やかなる時しか知り得ない僕らは、彼の苦しみを知る術がないのだから。 END.
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