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「幸せですね」
「ええ、幸せですね」
道ゆく人に挨拶をすると、彼は被っていた帽子を脱いでにこやかに挨拶を返してくれた。
時は3023年。
昔は多くの人が苦しんでいたという病気も怪我も争い事もなくなり、人々は幸せに暮らしていた。
出産はすべて無痛分娩になり、死すときは愛する人達に囲まれて安楽死。
結婚式の決まり文句はいつしか"健やかなる時を共に歩むことを誓いますか"という至って簡潔な文言に変わっていた。
皆が平等に分け与え、皆が健康に暮らす、ただそれだけでこの世界はこんなにも素晴らしいものへと変わったのだ。
職場のロッカーでお馴染みの格好に着替える。
僕は国立総合美術館で清掃員のボランティアをしている。
毎週きちんと国から決まった額の生活費が国民に支給されるので、人々は働く必要がなくなった。
それでも、この豊かな世界で暮らす幸せを誰かと分かち合いたいと、多くの人がこうして無償でボランティアをして生活しているのだ。
働く幸せは、人生をより豊かにしてくれる。
「これは本当に珍しいものですね」
「そうですね、こういうものがこの世に存在するんですね」
薄暗い展示室で、夫婦がまじまじと展示ケースの中身を眺めている。
縦長の大きな透明ケースの中には、木製の椅子に腰掛けた"ひとりの男"が展示されていた。
男の顔色は土気色で、全身が皮と骨の状態に痩せ細り、両目は死んだ魚のように真っ白だった。
展示品は『病みゆく人』と名付けられた。
それはこの世で最も珍しく、貴重なものだった。
閉館後の静まり返った館内をモップをかけながら一人歩き回り、僕は例の『病みゆく人』の前で足を止めた。
ピカピカに磨かれたケースに小さな手のひらの跡がついていた。見学に来た子供が展示品を覗き込んだ時についたのだろう。
僕はそのとき、生まれて初めてケースの中の彼の事を「気の毒に」と思った。
それは生まれて初めての感情だった。
せめて手のひらの跡を綺麗に拭き取ろうと、腰から提げていた雑巾を手に取ったとき、蚊の鳴くような声を聞いた。
「もうすぐ私は逝く」
たしかにケースの中から声がした。
僕が恐る恐る近付いて行くと、彼は薄い唇を微かに開いた。
「私が一番最初に病んだのは、心だった」
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