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Ⅰ #suicide
1
目が覚める。
起きたばかりで視界と思考に靄がかかったようになる。二、三度の瞬きをして窓の方を見ると、僕の目を潰さんばかりに眩い朝日が視界を覆いつくした。どうやら昨夜、僕はカーテンを閉めずに眠ってしまったようだ。
ベッドからのそのそと起き上がり、床に足を置いた瞬間に違和感に気付く。
(妙に部屋が静かだな……)
僕は彼女と同棲している。一年前くらいから付き合っている彼女だ。長い黒髪とアメジストのような光沢を持った美しい瞳。見目麗しい容姿に惹かれたというのもあるが、思慮深い性格とどんな相手でも気遣える優しさという内面の長所に惚れて僕の方から告白した。まだ籍は入れていないが、結婚に向けての話も本格的に進んでいる。
そして同棲生活を続けて発見した、新たな彼女の長所は朝がとても早いことだった。
ベッド脇の棚に置いてある目覚まし時計を確認すると午前七時だった。おかしいなと僕は首を傾げる。彼女はいつも午前五時半までに起きる。閉めていたカーテンを開け、テレビのニュースを見ながら朝ご飯を用意してくれる。僕が起きる頃、寝起きの僕の鼻腔には焼いたトーストの香ばしい匂いが広がり、リビングの方からはお天気キャスターの溌溂な声が響いてくる。僕がリビングに向かい、
「いつも、ありがとう」
と言うと、彼女は
「好きでやってることだから」
と陽だまりのような顔で笑った。
このモーニングルーティンは平日だけでなく、土日も休まずに行われている。今のところ、この朝の流れが中断したことはなく、トーストの匂いやお天気キャスターの声が無いのは今日が初めてだった。
ちなみに今日は土曜日。僕の会社は完全週休二日制で今日の仕事は無い。だから、特に慌てることもなく僕はリビングに向かった。
リビングの窓からは橙色の旭光が差し込んでいた。この空間にはダイニングテーブルと椅子、ソファー、本棚や食器棚などの最低限の家具しかない。結婚に合わせて、今の家から引っ越しすることを考えているので、これ以上家の中に物を増やさないようにしようと二人で決めたからだ。
辺りを見回す。テレビの画面は真っ暗なまま。オーブントースターも起動している様子はない。そして案の定、彼女はこの空間には居なかった。
(出かけているのだろうか?)
ふと、そう思った。だが、この家の周りに朝早くから開いている店は無い。どれだけ早い店でも午前八時半からの開店だ。散歩に出ているかもしれないとも思ったが、この家の周辺は公園もなく散歩には適していないし、そもそも彼女の靴はちゃんと玄関にあった。玄関の三和土には僕と彼女の靴の二足しかないので、無くなっていれば嫌でも気が付く。
ここはマンションの2LDK。僕の部屋にもリビングにも居ないということは風呂場か彼女の部屋の二択。しかし、ドライヤーの音もシャワーの音も聞こえないので彼女の部屋に居る可能性の方が高い。
リビングを離れ、彼女の部屋の前に立つ。一瞬、何か言葉にできない嫌な思いが胸に広がり、手をドアノブに掛けようとするのを躊躇う。でも、一刻も早く彼女の顔を見たい僕は大きく息を吸って、吐き出すと同時に扉を思いっきり開いた。
昨日までは優しい笑顔を見せていた彼女。
風鈴の音のような透明感のある声で「明日、何食べたい?」と僕に問いかける。僕は「いつも通り、トーストでいいよ」と答える。彼女は微笑みながら「わかった。じゃあ、また明日ね。おやすみなさい」と言って自分の部屋に入っていく。
でも……。
僕は膝から崩れ落ちた。僕の目は彼女の部屋の天井を見ていた。
天井の照明の金具に電気コードがきつく結ばれている。そして、電気コードのもう一方の端は彼女の首に巻き付いていた。
風になびく夏の風鈴のように、彼女の細い体はゆらゆらと揺れていた。
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