春の神託

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春の神託

 去年の冬、神を飼っていた。  道端に()ちていたそれは、親指と人差し指でちょいと摘まめるくらいの、くしゃくしゃになった赤いセロハン紙だった。少なくとも私は、それを見つけたとき、飴の包み紙か何かだろうと思った。気に入りの散歩道をちょっと綺麗にしておくか――その程度のぼんやりとした善意で拾い上げたゴミが、手の中でうごうごと広がり波打ったときには驚いたものだ。  私はそのゴミを、ゴミ(いは)く神を、自宅へ持ち帰る羽目(はめ)になった。  本当は投げ捨てたかったけれど、薄っぺらい自称・神は私の手のひらにぴたりと貼りつき、石鹸で洗っても消毒用アルコールで(こす)っても取れなくなってしまったのだ。  それから、神は勝手にいろんなことを喋った。  神はかつて在ったのだけれど、やむなく無になったらしい。  やがて時間が経つと共に神由来の無から点が生じ、線となり、平面にまで漕ぎつけた折、私に見られたことで厚みを獲得した。それが今の赤いセロハン状の姿なのだという。  物理だの数学だのの理屈をもって人間にもわかるように解説してくれたらしいが、私にはよくわからなかった。根っからの文系なのである。  よくわからない私をよそに、神は私の手のひらの上でむくむく肥えていった。  手に正体不明の赤い硝子玉もどきをくっつけたまま人前に出る度胸はなく、私は生活のために嫌々勤めていたアルバイトを辞めた。  病院には行かなかった。散歩以外の何もかもが億劫で、この冬こそうっかり冬眠したまま目覚めなければいいのにと思っていた矢先の出来事だったからだ。  私は神のお喋りを聞き流しながら毎日散歩をし、家でぼうぜんと窓の外を眺めた。神がうるさく文句を言うものだから、いつも面倒でつけない暖房を毎日つけた。暖房をつけると部屋は暖かくなった。  このまま神の苗床になるのも一興だと思い始めた頃、冬が終わった。  神は私の手のひらからぽろりと剥がれ、なんだかお告げじみた言葉遣いで今日までの礼とこれからのことを語った。  なんでも、堕ちていた神を拾い清め育て、野に放った私の行いは、後世にて再生の神話となるらしい。  そんな話が世に伝わる頃、私はもう生きてはいないだろう。けれど明日を生き、明後日を生き、紆余曲折(うよきょくせつ)の末に不老不死になるか否かの選択を迫られることが万に一つもあったなら――もし、もしもそうなったなら、死なず一人で後の世を眺めるのも悪くない。  そんな万が一を楽しみに、私は今日も生きている。
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