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「あらぁ、里帆ちゃん、弟の輝君の面倒よく見てて偉いわねぇ」
同じマンションの葛西のババァは香水が臭い。エレベーターに乗り込んで、ばったり遭遇してしまい、私は仕方なく笑顔を向けつつも、内心はうぜぇと思う。小さな弟の手を、ぎゅと握りしめる。
「今日もお母さんのところに行って来たのね。偉いわ。確か里帆ちゃん五年生よねぇ。しっかり者でお母さん助かるでしょう」
そんなこと、あんたに関係ないだろう。
「お母さん白血病で大変だから心配かけたくないんだよぅ。おばちゃん」
私が笑うと、ほろりと葛西のババァは涙を浮かべているようだった。
「なにか困ったことがあったら相談してね」
「ありがとう。おばちゃん。ほら、輝もありがとうは」
「あんがとう」
4歳の輝は舌っ足らずで、私を真似て頭を下げてみせた。ちんっとエレベーターは3階で開き、私はにこやかに手を振って降りる。弟の手を引き、家へと向かった。
私は嘘つきだ。
学校や近所。母や父にと、私は良い子ぶっていた。
学校で私は学級委員で、先生に一目置かれていたし、友達も数学の答えがわからいから教えてって、私を頼っていたし、父さんもお祖母ちゃんが来れないときは、私を頼って家のことを任していた。学校帰りでは、保育所に行って輝を向かいに行く、手を繋いで3キロほど離れた母の病棟に顔を出し、頼まれればそのまま帰りに商店街で、夕飯のおかずを買って帰る。よく出来た子だと言われている。
だってその方がみんな喜ぶでしょう。
「──ねぇちゃん。あそんで」
「五月蝿い。あっち行ってろ」
私は机のうえで宿題をしていた。輝は玩具のレゴで遊んでいたが、どうやら飽きてしまい、私のスカート丈を引っ張ってくる。
──いい加減にして欲しい。
私はお風呂の掃除をして、食器まで洗ってやったんだ。その間、ぐたぐだとグズる輝にお菓子を与え黙らせ、玩具も出してやった。
私だっておやつも食べたいし、遊びに行きたい。
でも、お父さんが返ってくるまでに宿題を終わらせないと。私は壁に掛けられた時計を見る。6時だった。あと30分もしたらお父さんが帰ってきて、夕飯の手伝いしないといけないじゃん。
「輝。ひとりでお絵かきしてなさい」
「やぁだ。ねぇちゃんと、あそぶのぅ」
「お姉ちゃんは、宿題中だって言ってるじゃん。そうだ。輝の好きなラムネ出してあげるから」
「いらにゃい」
「じゃあ、牛乳は」
「やぁなの」
もう本当にいい加減にしてほしい。最近では、やたらと輝の反抗的な態度に苛つかされた。
「どうしてあんたってば、私の言うこときけないのよ」
輝の顔がくしゃくしゃになる。ヤバいと思った。
「うわぁぁぁぁ。ねぇちゃんが、おごったぁ」
泣きたいのはこっちだ。
頭が痛い。なんたか気持ちが悪い。泣き喚く輝を見て、このままではご近所迷惑になると、私は苛つきを抑えて輝を抱きしめた。
「泣き止んで輝」
──もう嫌だ。良い子でいるのに疲れたよ。
「ねぇちゃん?」
なんだか輝の声が遠く感じた。ふわふわする。意識が遠のいた。
気がつくと私は帰宅した父に連れられて病院に運ばれていた。医者は夏風だと言った。しんどいと思っていたら38度の熱があった。
「輝。お姉ちゃんは病気で、寝んね、してるから、部屋に入っちゃ駄目だぞ」
「あい」
父に言われ、輝は部屋には入らず、半分だけ戸を開けて、じっと私を覗いていた。
──なにがしたいんだか……。
「ねぇちゃん。いたい。いたい」
言葉を返す気力もない。お布団に寝かされていると、台所から卵粥の匂いがした。お父さんが作ってくれているようだ。輝は本格的に部屋の前に居座るようでクレヨンと画用紙を持ってくると絵を書き出した。
これでようやく静かになるだろうと思ったのに、輝は今度は、部屋の入口になぜかラムネをひとつ置いた。
──部屋を汚さないでよ。
「こえで、よくなるねぇ」
良くなる? なにが。子供のすることだから意味などないのだろう。それより、どっか行ってくれないだろうか。
──熱が下がったら、また、良い子に戻らないと。
少しでいい。なにも考えたくなかった。
「てるねぇ。もっといいこ。いいこになるからねぇ。ねぇちゃん、めっ。しないよ」
──はぁ? 私に怒るなってこと?
輝はさらにラムネを部屋の前に置いて並べる。
「あそんで、いわないよ」
ラムネを置いた。
「ぎゅうにゅ、いらない、いわないよ」
ラムネを置いた。
「泣かないよ」
ラムネを置いた。
そこで私は気がついた。我慢してるの?輝も。私と同じように。
私、ひとりだけが我慢しているのだと思っていた。そう言えば輝は余所ではあまり我が儘を言わなかった。
「おくすり、だいじ。だいじ。すぐによくなるからねぇ」
私は、はっとする。輝が用意したラムネは輝にとっての私へのお薬なんだ。
看護師さんがよく言っていた言葉だ。
「いいこ、したらすぐに、よくなるねぇ」
なぜか私は声をあげて泣いている。
輝の小さな薬を飲んで、ほんの少しだけ嘘つきをやめよう。そう思ったのだった。
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