神話のない世界が始まる

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 私たちのいる現宇宙が急速に縮小し限りなく零に近い一点に圧縮された後、ビッグバンと呼ばれる破裂によって新宇宙へと生まれ変わり無限大の彼方に向けた再膨張を開始するまでの一瞬は、全物質が静止している……と一部の宇宙物理学者は想定している。万物流転の真理が効力を失う唯一の時間帯だと考えているのだ。  時空物理学者の一派は別の説を唱える。現宇宙に存在する全部の物質は一点に凝縮されるのではなく、その一点から別次元の空間へと押し出されているのであって、この次元には不在だけれども異次元では動いているのだから、静止していると決めつけられないというのである。  幻想物理学者のグループは宇宙起源論に別の角度から光を当てることで知られる。  そういった学者たちは宇宙の始まりの瞬間を、どのように考えているのだろうか?  ファンタジー量子論の研究者エム氏は語る。 「私たちの暮らす宇宙が収縮し、砂粒よりも小さな塊に縮小したとします。それは超高圧状態です。ラッシュ時の満員電車よりも酷い状況ですよ。何もかもが一点にぎっしりと詰め込まれた状態ですから、どんな物質も動けないでしょう。従って、すべての物体が静止するという考え方に同意します」  同じくファンタジー量子論学者で虚光解析学が専門のエヌ氏の見方は異なっている。虚光収集衛星から得られた観測データを研究した同氏は、その結果を学会で発表し、センセーションを巻き起こした。 「最新のデータ解析に基づきスーパーコンピューターでシミュレーションを行いました。ファンタジー宇宙マイクロ波背景放射の測定値を一つずつ虚陰数分解していくのです。難しすぎてスーパーコンピューターが何度もフリーズする面倒な作業ですが、興味深い結果が得られました。ビッグバン直前の、すべてが静止している瞬間の記録に、若干の変動が見られたのです」  それが意味するものは一体、何なのか? 「それはつまり、動いている存在があるということです」  万物が動きを止めているという仮説が誤りだとエヌ氏は断言する。 「動いている物体があるわけですから、万物は常に流転していると言いきって間違いないでしょう」  同じ測定データを分析した虚構理論学者ピィ氏は違った意見を述べている。 「僕は複数の人工知能を搭載した量子コンピューターによるファンタジスタ並列で解析しました。変動と認識された測定データは恐らく、この世のものではありません。エヌ氏の研究で使用されたスーパーコンピューターは実測値を現実のものと解釈し分析しましたが、それが間違っていたのです」  それでは、記録された数値の変動とは、何を意味しているのか?  自信たっぷりにピィ氏は語る。 「このデータの揺れが語っているのは異世界の動きです。この次元に存在しているものではないのです。それを現実のものだと認識しているために齟齬が生じているのです」  その異常値が示しているものは何か?  異世界における知的生命体の活動を調査研究している素粒子錬金術師のケイ氏は、このデータの揺らぎを次のように解釈している。 「神々の軌跡だと思われます。私たちの研究グループでは蒸気エーテルの充満した透明な霧箱に熱素入りアルコールを噴霧して、その霧箱を頭にかぶってブラウン管型テレビのモニターを眺め、その画面に映る白黒のファンタジー宇宙マイクロ波背景放射を通して異世界の様子を幻視しました。その結果、神々の軌跡というのがもっとも妥当な推論だと考えました」  灰色の煙で満たされた霧箱の中に頭を入れたケイ氏は、ブラウン管型テレビのモニターに何を目撃したのか?  有機エステル酸ケイ素スチーム式パンクAIのエイゼット氏は、こう語る。 「ホルマリン漬けのファンタジー脳とアクアマリン漬けのメルヒェン脳、合計百一体に対して、ケイ氏と同様の実験を行いました。二種類の脳が視覚でとらえた光学情報を手作業で丁寧に網膜処理し、人体に有害な成分を除外してから動画にしました。これでケイ氏が見たものを、誰でも見ることができます」  ビッグバンによる世界創生の直前の、異世界での神々の行動を私たちは自分たちの目で見られるのである。  それは、どのようなものなのだろうか? ・神々が集い討論を交わす。その内容は、これから創る世界に流す“神話”の選定会議!?  古い宇宙が終わり新たな宇宙が始まる直前。二つの宇宙の境目は、無そのもの。ただ静寂だけが存在する……が、その裏側は違う。  一点に集中した全宇宙の後ろ側を覗き込めば、興奮した多くの神々が大声で討論を交わす光景が見えてくる。  その討議内容は、いかなるものか? “神話”の選定だった。  神々は、これから創る世界に根付かせる“神話”を決める選定会議の真っ最中なのだ。  どの神も必死だった。この選定会議で決まった“神話”が世界に広まるのだから、当然ではある。だが、皆が自分の出てくる神話を推すので、いつまで経っても結論に至らない。  会議を運営するエブリスタの事務方は焦っていた。早く結論が出ないと新宇宙の爆誕に間に合わない。その場合、新しく生まれた宇宙は神話のない世界となる。  それに対する危機感がまったくない神々は、憎悪を剥き出しにして罵り合っている。  ギリシャ神話と北欧神話の神々はヨーロッパの覇権を巡って争っていた。  エジプトとメソポタミアの神々はオリエントの支配を確立すべく戦っている。  インドの事情は複雑だ。先住民族系の神々と、カイバル峠を越えてインド亜大陸に侵入したインド・ヨーロッパ語族のアーリア系神々が一体化したのだが、神々間に身分の差があるため、軋轢が生じているのだ。  アジアもややこしい。万物に神が宿るという思想が根底にあるため、神の数がやたらと多いのだ。偉人を神として祭る習俗があることも神の数が増える原因になっている。例えばスポーツの試合が終わると神が一柱増える。  アフリカも面倒だ。各部族ごとに神話があるので大陸内で意見を統一できないでいる。人類発祥の地なのだから、すべての神話の元はアフリカにあるはずだが、そこでも神話が統一されていないのは人類がアフリカを出たとき神話を持っていなかったということなのだろうか。  このように旧大陸は混沌としている。新大陸も同様だ。南北アメリカ先住民の神話にアフリカから奴隷として連れて来られた黒人の神話が並立し、そこに支配階層であるヨーロッパ人の影響が加わった。多神教の神話体系に一神教の強力な枠が課せられ、神話の変質を余儀なくされたのである。また、過酷な収奪システムの歪みが新しい神話の誕生を促進したことを指摘する必要がある。カリブ海沿岸で信仰されるブードゥー教のゾンビは、近世に入ってから生まれ今なお拡大を続ける恐怖神話の生ける屍だ。  別の恐怖神話もあった。アメリカ合衆国の幻視者にして怪奇小説家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが世界中に広めたクトゥルフ神話である。信者の数は日を追うごとに増加しており、その影響力は無視できないものとなっている。ただし、この選定会議には出席していない。クトゥルフ神話の神々は邪悪な破壊神ばかりであり、産声を上げつつある世界を滅ぼそうと画策していて、そっちの方で忙しいのである。もっとも、たとえ参加しても、議事進行の邪魔しかしないだろうが。  いや、クトゥルフ神話の神々がいてもいなくても同じという感じはする。度の神々も自分の神話しか推していない。お山の大将ばかりだから、それも当然という感じがしてきた。  選定会議を主催しているエブリスタの人間は、神々に早く結論を出すよう求めたが、相手にされなかった。頭を下げて頼んでも駄目なのだから、この世に神も仏もありゃしないと嘆かざるを得ない。だが、捨てる神あれば拾う神ありで、助け船を出す善神が現れた。時間の神である。時を司る神が言う。 「このままでは時間がいくらあっても足りない。もう打ち切ってしまえ」  エブリスタの人間は困り果てて言った。 「ですが、それでは新世界に神話が存在しなくなってしまいます」  時間の神は時間にうるさかった。 「時間がないほうが問題だ。もう諦めろ」 「しかし……神話がない宇宙なんて想像できません」 「試しに見てみようじゃないか、神話なしの新宇宙を」 「そんなことが出来るのですか!」 「このまま選定会議の結論が出ないときは、時間切れで自動的に神話なしの宇宙が誕生するんだろ?」 「そうですが」 「その新しい宇宙が、神話なしでどうなっているのか、眺めよう。それで、もしも不都合がいっぱいあったら、何とかする」 「何とかなるんですか!」 「時計の針を戻せばいいんだ」  時間の神は最強だな、とエブリスタの人間は感動した。 「神様、それでお願いします」  時間の神が頷くと、それほど時間を空けずにビッグバンが起こった。天地開闢である。  エブリスタの人間と時間の神は、会場の隅に置かれた椅子に腰かけ、神話のない新世界の行く末を注視すべく、スマホの画面に目を凝らした。 ・町に古くから伝わるおとぎ話。私にはなぜか、その主人公であるお姫様の記憶がある。 「ねえパパ、ちゃんと聞いてる? 私の話、ちゃんと聞いてよ。もう!」  助手席の娘がむくれた。  私は「ごめんごめん、ちょっと考えごとしてた」と謝った。 「何の話だっけ?」 「もう知らない!」  唇をツンと尖らせ、娘がそっぽを向く。やれやれ、すっかりつむじを曲げてしまった。こうなると厄介だ。お菓子かジュースでご機嫌を取るか? どこか近くに店があればいいのだが。  私はカーナビを見た。自分が走っている場所は分かるけれど、現在位置に近いスーパーやコンビニの場所は分からない。こうなると正直お手上げだ。  残念ながら、私はこの町の地理に疎い。加えて重度の方向音痴ときている。カーナビの指示通りに動かないと駄目だ。目的地にたどり着く自信がない。  それでも娘のために道を外れる覚悟がある。 「パパは喉が渇いたから飲み物を買おうと思うんだけど、お前も何か買う?」  返事はない。しかし、ここで挫けてはいけない。 「それともレストランに寄って、何か食べるかなあ」  娘がモジモジした。私は気を遣った。 「どこかに寄ってトイレを借りようと思う。そこでついでに、軽いものでも食べて行こうよ」  返事はなかったけれど、私は最寄りのドライブインに入った。駐車場は空いていた。隅に車を停めて店内に入る。中年の女性店員が私たち親子を見て、露骨に顔をしかめた。 「何か用?」  客に対する口の利き方ではない。だが、それを注意するのは得策とは言えないので気にしないふりをした。 「二人だが席はあるかな?」  カウンター席もボックス席もガラガラだが、店員は私たちを席に案内しようとはしなかった。 「今は休憩中。出てって」  表には営業中とあった……が、その指摘は避けた。 「それじゃ、トイレを借りたい。それならいいだろ」 「使えない。帰って」  娘が不安そうに私を見上げた。私は財布から紙幣を一枚出した。 「トイレの掃除代に」  女性店員はもう一枚要求した。要求に従ったら、さらに一枚求めてきた。高額紙幣を合計三枚、言われるがままに渡す。それでやっとトイレを使えることになった。娘は飛んで行った。やれやれだ。私はタバコをくわえた。娘がいると吸えないのだ。  女性店員が手を差し出した。私は知らんぷりをした。 「ちょっと、無視しないでよ」  相手がこっちに近づいてきたので無視できなくなった。 「何です?」 「その箱、渡しなさい」 「この店、禁煙?」 「煙草をくれって言ってるのよ」  私は苦笑した。金だけでなくタバコも毟り取るつもりなのだ! トイレの使用代を払うのはいいが、タバコの箱まで献上するのはお断りだ。 「タバコの代わりに、いいことを教えてやる」  金のライターでタバコに火を点け、深々と紫煙を吐き出した。 「この町に古くから伝わるおとぎ話があるだろ? 主人公のお姫様が冷酷な中年ババアにいじめられる話だ。あれに出てくる悪役のババアにあんた、似てるよ。そっくりだ。凄い不細工の中年女に」  実際は悪役令嬢なのだが潤沢な脚色を加えてやった。それが効果を示したようで、女性店員の頬がビリビリ震えた。 「黙ってりゃいい気になってんじゃないわよ、この異人種! 薄汚い外国人!」  私はせせら笑った。 「そんな奴らから金やタバコをせしめようとするあんたは何だい? ノミか? それともダニか?」 「ふざけんじゃないわよ!」  店の奥から店主らしき男が出てきた。 「何の騒ぎだ?」  中年女が口から唾を飛ばして言った。 「この外人が騒ぎを起こしやがったんです」  店主は私を睨んだ。 「出ていけ、さもないと警察を呼ぶぞ」  私はくわえタバコで言った。 「トイレが終わったら出る」  娘が戻ってきた。険悪な空気を察して青ざめる。私はニコッと笑った。 「ちゃんと手を洗ったか? どんな雑菌が繁殖してるか知れたものじゃないぞ」  憮然としている店の二人の前を娘が走り抜けた。私は二人に背を向け、娘に続いて店を出た。車に戻る。空模様が悪くなってきた。急ごう。ドライブインの駐車場を出る。娘が苛立たしげに言った。 「ホント、嫌な町ね!」  私も同意見だった。用がなければ来なかっただろう。さっさと用を済ませ退散するのが吉だ。そんなことを考えていたら、娘が謝ってきた。 「さっきはごめんね」 「何のこと?」 「話を聞いてくれないって、怒っちゃったこと」 「悪いのはこっちだよ、ぼ~っとしてたんだ」  娘はドライブインのレジの横から魔力で盗んできたお菓子とドリンクを飲み食いしながら私に尋ねた。 「パパの分も持ってきたけど、今ほしい?」  私は怒った顔をして見せた。 「そんなことに魔術を使っては駄目だ。魔術師を名乗るからには品位が大切なんだ。高い徳を持ってだな、行動しなさい。そうしないと自分を高められないぞ。わかっているか?」 「うん」 「お前のお母さんは立派な魔術師だった。あれくらい高いランクになれば、トイレに行かなくても済むようになる」 「でも、亡くなったじゃない」  二重に痛いところを突かれた。妻を失った心の痛手から私はまだ立ち直っていないのだ。あれからもうだいぶ経つのに。  その点、娘はタフだ。重苦しい顔になった私に気を遣ってか、明るく言った。 「わかった、これから気を付ける。ところでお菓子、要るの、要らないの?」  娘の弾んだ声は妻の声に似ている。私も陽気な声で言ってみた。 「後でイイや」  車内の空気が軽くなった。それから空も明るくなった。妻のおかげかもしれない。彼女に感謝だ。  気分がほぐれたのだろう、娘は語り始めた。 「さっきはね、こう言ったの。この町に古くから伝わるおとぎ話の主人公のお姫様の記憶が、私とパパの二人にある理由って、やっぱり私たちの先祖が、そのお姫様ってことだよねって」 「そうだなあ、きっとそうだよ」 「それとも、ご先祖様じゃないのかな。私たちとは人種が違うから」 「わからないなあ、どうなんだろう」 「お姫様の魂が時間を越えて私たちに語りかけているのかもね」 「その可能性はあるね」 「お姫様、いじめられてたけど、最後は幸せになったよね」 「そうだね」 「伝説の勇者に助けられたもんね」 「ああ、それははっきりしている」  そうは言うものの、疑問は残る。お姫様はおとぎ話の最後で伝説の勇者に救われ幸せになったが、あれが物語の本当の最後だとは断言できない。その続きを思しき別の伝説があるのだ。そのことを娘は知らない。娘に詳しいことを話すのは、伝説の勇者の子孫に会ってからにしよう、と私は思った。  私は魔法の呪文を唱えた。短くなったタバコが口臭を消す飴玉に変わった。 「パパ」 「ん」 「タバコ、吸っちゃダメからね」 「そうだね」 「それから、アメはガリガリかじっちゃダメよ」 「癖なんだよね」  目的地が近付いてきたことをカーナビが教えてくれた。〇〇少年矯正施設。伝説の勇者の子孫が、ここにいるのだ。 ・孤児として虐げられる少年を迎えに来た騎士。彼は少年を、伝説の勇者の子孫だと言うが……?  ワイ少年は、自分の身元引受人を名乗る男性に見覚えがなかった。それでも知っているような素振りを見せて看守の目を誤魔化した。ここで妙な態度を示したら疑われてしまう。身元引受人を名乗る男性にくっついて〇〇少年矯正施設を出てしまえば、どうにかなる。  その外国人男性は聖金羊毛騎士団員だった。正式な書類を持参しているので疑いようがない。施設の職員は大層驚いていた。極めて身分の高い人間しか入団を許されない伝説的な騎士団なのだ。それが孤児として虐げられるワイ少年の身元引受人になるとは不思議でしょうがなかった。  この町の人間はほとんどが人種的な偏見の持ち主だ。従ってワイ少年も施設職員も聖金羊毛騎士団員の外国人男性には胡散臭い思いを抱いたが、その娘には好意しか持たなかった。彼女は美少女だった。飛び切りの美少女だ。  面会室で一目見たときから、ワイ少年は少女を気に入った。  相手の方が彼をどう思っているのかというと――ビビビビ……  スマホの画像が乱れ、解説するナレーションの音声が聞こえなくなった。何をどうやっても駄目だった。時間の神とエブリスタの人間は神話のない宇宙に生活する人間の暮らしの観察を断念した。 「仕方がない、ここまででいいだろう。どうだ? 俺は神話がなくとも大丈夫そうに見えたが」  時間の神に尋ねられたエブリスタの人間は同意した。世界に神話はなくとも、伝説やおとぎ話が自然発生しているようだ。それで事足りるのなら問題ない。  時間の神は頷いた。 「それじゃ、神話不要ということで決定な。“神話”を決める選定会議は終了ってことで」  時間の神は選定会議の会場を去った。別の次元でも同様の会議があったので急ぎ足である。  エブリスタの人間は議論を続けている選定会議出席の神々に時間切れであることを告げた。「会場を借りている時間がそろそろ終わるので、お早目の退出をお願いします」と言ったところ、集まっていた神々は三々五々散っていった。そして神話のない世界が始まった。
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