友達は魔法使い

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 朝早くから制服を着て出歩く生徒が少なくなったので、どうやら世間は夏休みに入ったらしい。かと言って、私の生活はいつも夏休みみたいなものだから変化ないのだけれど。  変化と言えば、以前より空を泳ぐ魚の数がぐっと減ったように思う。琥珀達魔法使いが頑張って捕まえてくれているおかげだろうか。  今日もいつものように屋上に行こうとしたとき、お母さんが銀行に行って来るというので、おばあちゃんとお留守番することになった。  おばあちゃんは椅子に座って、小学二年生の算数の問題集を解いている。病院で頭の体操のため勧められたそうだ。途中、四×九の答えが合っているか訊かれて「三十六で合ってるよ」と教えてあげると笑顔で「ありがとう」と言われた。  それ以降特に何か訊かれることはなく、私はおばあちゃんから少し離れたダイニングテーブルに座って、漫画を読みながらだらだらしていた。そこから一時間くらいしてトイレに立って、戻って来るとおばあちゃんの姿が椅子から消えている。どこにいったのかなあ、とリビングを見渡すと――おばあちゃんは余程眠かったのか、やりかけの算数の問題を机の上に置いたまま椅子ではなく椅子の横、リビングに敷かれたカーペットの上で寝ていたのだ。近くに寄ると、ぐう……と寝息を立ててぐっすりと眠っている。こんなところで寝たら風邪引くよ、と思ったけど起こすのも気が引けたので、ソファに置いてあったタオルケットを掛けてあげた。  でも。  それは寝ていたわけではなかったのだ。  二十分くらいして、お母さんが帰って来た。  お母さんは途中買い物をして来たようでキッチンに買い物袋を置くと、そこから部屋を見回して言った。 「おばあちゃんどこ行ったの?」 「おばあちゃん何か疲れてるみたいで、そこで寝てるよ」  それを聞くとお母さんは「珍しいわね」と言って、キッチンの荷を片した後、お茶を片手にダイニングテーブルで一息つく。 「夜、暑かったから眠れなかったのかな」と、お母さんはリビングで寝ているおばあちゃんを見ながら、お茶を口に運ぼうとしたそのとき――お母さんの手がぴたりと止まる。 「雫、おばあちゃん寝てるんだよね……」  言っている意味が分からない。いや意味は分かるんだけど、今その会話はしたところなのだから訊いている意味が分からない。 お母さんは忍び足で寝ているおばあちゃんの元へと歩み寄る。そして、言った。 「おばあちゃん、死んでるかも」  は? 母親にしては冗談がきつすぎる。まさかそんなはずない。だって、さっき見たときは寝息を立てて確かに眠っていたはずだから。死んでいる何てあり得ないのだ。  お母さんは寝ているおばあちゃんの肩を叩きながら、必死に呼び掛ける。お母さんは起きないおばあちゃんを前に「えーっと、こういうとき何すればいいんだっけ?」と明らかに動揺している模様。いやいや、だってついさっきまで算数の問題やってて私に答えを訊いて来たのだ。何度も言うが、死んでいるはずがない。  だけど、おばあちゃんはお母さんの呼び掛けに全く答えないのだ。  私は今、目の前で起こっていることが現実のことと思えなくて、確かめるようにのそのそと寝ているおばあちゃんに歩み寄る。一歩おばあちゃんに近づく度、心臓の鼓動がドクッドクッと激しく高鳴っていく。  寝ているおばあちゃんの顔を覗き込んだ。おばあちゃんの顔は真っ青に青ざめている。血の気がなく顔全体が白っぽくなっていて、唇の色も紫に近い。それまで死んだ人の顔を見たことはなかったけれど、死んでいると分かった。 さっきまであんなに元気だったはずなのに。昨日も今日も元気そうに笑い掛けてくれたのに。  でも、おばあちゃんは今穏やかな顔で目を瞑っている。  寝ているだけだと思っていたけれど、それは死んでいたのだ。 私はどうすることもできなくて、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。何をどうしていいのかも分からない。  そこから心の整理がつかないまま、慌ただしく時が過ぎて行った。 家に救急車や警察が来たりして、私もおばあちゃんが死ぬまでの状況を事細かに聞かれた。普段警察の人と話をすること何てないから、何もしていないのに悪いことをした気になる。  いや、何もしなかったのがいけなかったんだ。だからおばあちゃんは死んだ。もし私がおばあちゃんの異変に気づいて、早く救急車を呼んでいれば――。  お葬式まではあっという間だった。おじさんやおばさん、いとこの兄弟達、普段会うことのない親戚、初めて見る親戚、おばあちゃんの友人など葬儀までに様々な人が訪れた。  でもその中の誰一人として私を責める人はいなくて、皆口々に残念だったね、と言うばかり。  おばあちゃんは私が見殺しにしたも同然なのに。お父さんやお母さんですら私を責めない。まあ、それ以前にお客さんの対応や葬儀の準備に追われていたからそんな暇なかったのだろうけど。  後から聞いた話、おばあちゃんの死因はくも膜下出血だったらしい。おばあちゃんは「早く救急車を呼んでくれれば助かったのに」と私のことを恨んでいるかもしれない。  私は本当に馬鹿であほで何もできない愚か者である。  おばあちゃんは火葬され、ほんの小さな白木の位牌になって私達の元へ戻って来た。リビングでいつも笑い掛けてくれるおばあちゃんはもういないのだ。  もっといっぱい会話すればよかった。もっといっぱい「ありがとう」って言えばよかった。また見たいと言っていた走る姿も一回くらい見せたってよかったじゃないか。おばあちゃんの笑った顔をもう一度見たい。でもそれらはもう何一つ叶わないのだ。  それから催し的なものが全て終わって、私達は家路を辿った。  家に帰ると玄関先に琥珀がいた。彼女は葬儀には出なかったものの、一度線香をあげにきてくれたのだ。だけど、そのときの私は誰とも話す気になれなくて、ひたすら手伝いをしているふりをしてやり過ごしていた。だから彼女と顔を突合せるのはとても久しぶりのように感じる。  琥珀は私に掛ける言葉が見つからないと言わんばかりに口籠り、目をしきりに泳がせている。 「用がないなら、行くよ」  と告げると、彼女は慌てて口を開く。 「おばあちゃん、残念だったね……。またお話したかったよ」  そんなの私が一番話したいし、謝りたいよ。そんなことを言いに来たのか。  私は冷たく突き放すように言った。 「それだけ言いに来たの?」 「ああ、ううん。これシュークリーム。商店街のおじさんからおまけであげるって言われてさ。いっぱい貰っちゃったんだよね。一人じゃ食べきれないし、この間プリン貰ったお返しに」  見ると手には紙袋をぶら下げている。たぶん彼女なりに気を遣ってくれているのだろう。 「食欲ないからいらない。別の人にあげたら」 「うーんっと、じゃあ、雫のお父さんとお母さんに渡してくれないかな?」  と彼女は私に紙袋を胸に押し付けて来る。だけど私はそれを受け取らない。  琥珀はしばらく紙袋を押し付けた後、それを下ろして諭すように言った。 「そんな悲しい顔してたら、おばあちゃん雫のこと心配で天国行けないよ」 「おばあちゃんはきっと私のこと何か心配してないよ。むしろ恨んでると思う」 「何でそんなこと言うの……。だって、おばあちゃん雫のことあんなに気に掛けてたじゃん」  おばあちゃんはもう私のこと何てどうも思っていない。だっておばあちゃんは――。 「私が早く気付いてさえいれば、おばあちゃんは死ななかったんだ。今頃、そのシュークリームだって一緒に食べれたかもしれないのに。私がおばあちゃんを殺したも同然なんだから……心配何かするはずない」  私の言葉に琥珀は驚いたいような表情を浮かべた後、一つ間を置いて言った。 「そのときのことは分からないけど。でも絶対に雫のことは恨んでないと思うよ」  何も知らないからそんなこと言えるんだ。今考えればおばあちゃんが床で寝ていること自体  おかしいことだったのに。その異変にすら私は気づくことすらできなかった。  琥珀は私のそんな気持ちを慰めるように、私の肩にそっと手を置く。 「おばあちゃん雫のこと大好きだったじゃん。あんなに雫のこと応援してたし、走るとこだってまた見たいって言ってたよね? 雫にそんな風に思われたら、おばあちゃん悲しむよ」 「うるさい! さっきから何も知らないくせに分かったようなこと言わないでよ!」  私は琥珀の手を払いのける。すると、ぐしゃっと紙袋が地面に落ちた。私の肩に添えられた手に紙袋があったようで手を払いのけた拍子に落ちたのだ。  地面に落ちた紙袋を見つめて、言う。 「たぶんおばあちゃんは、私が何をやっても駄目な人間だってことを知っていたし。だから恨んでいる以前に、こんな状況になってもやっぱり何もできなかったんだ、って失望してるよ」  気が付くと自然と涙が溢れ出ていて、拭っても拭っても拭い切れない。だから、今琥珀がどんな表情をしているのかも窺えないほど視界がぼやけて歪んいる。 「もう私に構わないで」  と私は玄関の扉を開け、荒々しく中に入った。  それから何もやる気が起きず、部屋に籠ったままひたすら布団に包まって過ごした。食事、トイレ、お風呂のように必要なとき以外、部屋の外へは出ないのだ。
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