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リビングにある掛け時計は深夜一時を回っていた。
ベランダから見える光はまばらで遠くの商業施設の辺りは煌々としいるけれど、手前に見える住宅街はぽつぽつと明かりが点いているだけである。
闇夜には静寂が漂っていて、時折それを切り裂くように車が鈍い音を立てて走り去る音が聞こえてくる。
琥珀はまだ来ない。思えば、夜にベランダで待っててと言われたが時間は訊いていない。
今日は昼間から暑かったせいか真夜中なのに風は生温く、気持ち悪い。私はTシャツの襟元をぱたぱたとはためかせて、空気を送り込む。
待っている間、彼女が言っていた頼み事について考えてみる。見せたいものと言っていたけど、ベランダで見せたいものとは何だろうか。花火とかならあり得るか。
そう思って、夜空を眺めていると遠くの方で何かが強く光った。星かと思ったけれど、星にしては形も光り方もおかしい。それは淡く青白い光でゆらゆらと動いているのだ。光は近づいてくる。目を凝らして見ると、それは見覚えのあるフォルム――いつか見た巨大な魚である。
巨大な魚は優雅に泳いで、目の前を横切っていく。私はただその様子に見とれるばかり。そして魚が視線から途切れたとき――それに続くように琥珀が現れて、私の目の前で止まった。
現れた彼女は宙に浮いていて、サーフィンをするように箒に立ちながら乗っている。
奇妙な立ち姿をしている彼女は両手を合わせて、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「いやいやいや! そんなことより何してるの?」
「見せたいものがあるって言ったでしょ」
そうだけど空を飛ぶとは聞いていない。
私が戸惑っていると、彼女は私に手を伸ばして言った。
「魔法使いなんだから、空くらい飛ぶよ。さあ乗って!」
彼女の差し伸べた手を見つめる。よく見ると指先は細長いけど、これまでの苦労の証か手のひらは女の子と思えないほど、でこぼこしている。
たぶん以前の私だったらこの手は取らなかったと思う。だけど、今は違う。
私は彼女の伸ばした手を強く掴んで、箒に飛び乗った。
箒の持ち手部分の見た目は細かったけど、立ってみると意外と安定感がある。なぜか箒の持ち手部分は足に吸い付くような感じがするのだ。もしかしたら、これも魔法のおかげかもしれない。しかし、宙に浮いているので怖いことには変わりない。私は彼女の腰にしっかりとしがみついた。彼女の腰には以前見せてもらった三日月型の小袋が携えてある。
「じゃあ行くよ」
そのまま、箒は私達を乗せて真夜中の空へと飛び立つ。
夜の寝静まった住宅街の空を飛ぶ。見知っている町なのに、夜というだけで全く別の世界に見える。私は訊いた。
「ねえ、これからどこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみ~。だけど、その前にちょっとだけ寄り道していい?」
「いいけど。何かあるの?」
彼女の髪は風を受けて、ふわふわとなびき続けている。横顔から覗く彼女の眼差しは真剣だ。
「あのでっかい穢魚見たでしょ。あれ捕まえようと思って。首になっちゃったけど、やりかけた仕事だから、終わらせないと気持ち悪くてさ。ごめんね、本当はもっと早く捕まえる予定だったんだけど思ったより準備に手間取っちゃって」
「てことは、今からあの魚捕まえるってこと?」
彼女はにやりと頷いた。どうやら本気らしい。
箒は猛スピードで空を翔ける。さっきまで生温いと感じていたはずの風が心地いい。
どうしてか分からないけど、襷を繋ぐために必死に駆けていたあの日の記憶が浮かんでくる。
私が呆けていると、琥珀が「いたよ!」と弾んだ声を上げる。
琥珀の視線の先には、優雅に揺れる巨大な穢魚と思しきものの尾びれ。
ぐんぐんと巨大な魚との距離を詰め、やがて魚の真横にぴったりとついて並走する。
「どうやって捕まえるの?」
「それはこうするの!」
と彼女は巨大な穢魚を追い越して、腰に携えた小袋から釣り竿を取り出す。その釣竿は木でできていて、糸の先には青白く発光する丸い木の実のようなものがついている。たぶんついているのはシコンソウの実だ。
彼女は釣竿を大きく振りかぶって、それを遠くに投げる。
巨大な穢魚はそれに反応するように速度を上げて、糸の先に付いたシコンソウ目掛けて泳いでいく。
それに合わせて私達の乗っている箒も魚に追い越されないように速度を上げた。魚は釣竿の餌を一心不乱に追っている。それは、まるで鼻先に人参をぶら下げられた馬。
私達は魚に追われながら、右へ左へ折れる。どこか目指しているのだろうか。
しばらく追われ続けた後、私達は高校へと辿り着いた。それは私が通っていた高校。しばらく登校していなかったけど、通っていた頃と嫌味なほど変わらない姿である。
「もうすぐ。しっかり捕まってて!」
と彼女が言うと目の前に校庭が現れる。どうやら彼女の目指す先はそこのようだ。
でもどうするんだろう。私は次に起こることに身構えた。私達は速度を落とすことなく校庭へと真っすぐ突き進む。進んだ先に野球場がある。そこには二本の照明用のポールが立っていて、それを繋ぐように真ん中に網が取り付けられていたのだ。遠目から見れば巨大な蜘蛛の巣のように見える。それは一度、見たことのある網。以前は大量の穢魚を捕えるために使っていた。だけど前に見たものより網の幅が広く大きい。言っていた準備とはこのことだろうか。
網に近づくにつれて、私達を乗せた箒はさらに速度を上げていく。後ろに着いてくる巨大な穢魚も離されることなく一直線に向かっている。いくら何でもこのままでは私達ごと網にかかってしまう。
しかし箒は速度を落とさない。突っ込む――と思ったとき、視界が空へと向いた。そう、私達を乗せた箒は網に入る直前で直角に角度を変えて、真上に飛んだのだ。そして急に方向を変えられたことで、後ろに着いていた巨大な穢魚は急に止まれず、そのまま網の中に収まる。
琥珀は網の中に魚が入ったことを確認すると、慣れた手つきで三日月型の小袋の口を網に近づける。網は掃除機に吸い込まれるようにみるみる小袋に収まっていく。そして捕まえた。
あっという間の出来事だった。それで彼女のやり掛けていた魔法使いとしての仕事は全て終わり。やり遂げたはずの彼女の表情はどこ寂しげだった。
私の町にはデパートの上に観覧車があるのだが、彼女の見せたいと言っていた場所はそこだった。と言っても観覧車はこの時間は運転してないので、私達は観覧車の鉄骨部分に座った。
真夜中の町は夜なのにお店の光が数多く灯っていて、きらきらと煌めいている。生まれてからずっとこの町にいるはずなのに、こんな景色がある何て知らなかった。
「ここね、いつも仕事終わり来るんだ。いいでしょこの場所。ずっと、雫に見せたいと思ってたんだよね」
そう言って、彼女は自慢げな表情を浮かべて私を見る。
「うん。ちょっとだけいい気がする」
「もう、素直になりなよ。すっごく感動したでいいじゃん。感動したって言わないと、ここを動かんどう! 何つって」
と、彼女は両手を広げて通せんぼするようなポーズを取るのだ。
私はあまりの下らなさに噴き出して、言う。
「久しぶりに聞いたけど、相変わらずつまらないね」
「ちょ! それだけは言っちゃ駄目!」
彼女は怒ったように睨んでくるけれど一瞬の間が空いて、私達は同じタイミングでふふふと笑った。
「ごめん、確かにさっきのはつまらなかったかも」
「さっきの『は』じゃなくてさっきの『も』でしょ?」
彼女は「もう!」と言ってまた怒ったけれど、どこか満足そうな顔をしている。
それからまた私達は景色を眺める。そのまましばらく沈黙流れた後、彼女は言った。
「私ね、自分に一生懸命だったらそれでいいと思うの。人が何を辛いと思うかとか、何が苦しいと思うかは人それぞれ。人がどれだけ不幸か何て他人には分からないんだから。誰だって、心のどこかに不幸を抱えているんだもの」
それは私のことは気にしないでいいとでも言いたげな言葉。たぶん彼女なりに心配を掛けない気遣いなのだ。
私はそれに、うんとだけ頷く。彼女は穏やかな顔をしながら続けた。
「時には悩んだって、迷ったって、道を間違えたっていい。一歩一歩進んでいれば、目指す場所に辿り着けなくても、いつか想像もつかない景色が見れるって私は信じてるから」
想像もつかない景色。今の私には本当に想像もつかないけれど、もしかしたら今見ているこの景色みたいにそれは意外と身近にあるのかもしれない。
「ねえ、前に言ってた『見返してやる』って目標、まだ諦めてないんだよね?」
彼女は私に向かって親指を突き立てて、
「もちろん! 見返してやる人間が一人増えたしね。魔法使いの資格は剥奪されたけど、魔法を使えなくなったわけじゃないから。私は行けるところまで行くつもりだよ」
彼女らしい返答だ。私は嬉しくなって、にやりと微笑んだ。
「雫、何にやついてんの?」
「じゃあその目標、今度はしっかりと紙に書いて置かないとね。魔法使いだけにマジックで」
彼女はぽかんと口を開けて驚いている。初めて人前で駄洒落を披露したけど、こんなに恥ずかしいものなのか。今更ながら彼女のメンタルの強さには感服する。
そして彼女はしばらく間を置いた後、思い切り噴き出して、あっはっはと笑った。
「何それ、超つまんないんだけど」
失礼な。自分で言うのも何だが、琥珀の駄洒落よりは趣向は凝らしてると思う。
彼女はいつまでも笑っている。まあ、確かにつまらないか。
「ねえ約束しよう。お互い次会うときまで、今いる場所より少しだけ前に進んでるって」
と彼女はそう言って私の目の前に拳を突き出す。
私はそれに応えるように彼女の突き出した拳に自分の拳をぶつける。
「分かった。必ず前に進むから」
そうして、私達は屋上にいるときと同じように少し語り合った後、家に帰った。
翌日、隣の家はもぬけの殻になっていたらしい。管理会社の人に連絡が一本だけ入っていて、立ち合いもなく消えていたのだとか。中は住んでいた形跡もなく、あたかも初めから誰も住んでいなかったようだったという。あっという間にマンション中にその噂は広まり、近所の人達は不思議なことがあるもんだ、と言っていた。
でも私は覚えている。そこに誰よりも素敵な魔法使いが住んでいたことを。
町の空を我が物顔で泳いでいた魚達はもういない。お父さんは折角お菓子の販売始めたのに、と残念そうな顔をしていた。
私は夏休み明けからまた学校へ行き始めた。それは彼女との約束を果たすため。
時折、辛いことがあって逃げ出したくなることもある。そういうときは琥珀のことを、琥珀と交わした約束を思い出してみるのだ。
それでまた頑張れる。彼女はそういう魔法を私に掛けてくれた。
この世は不思議なことに満ち満ちている。不思議なこと何てないという奴は愚か者だ。
だって、私の友達はつまらない駄洒落ばかり言う魔法使いなのだから。
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