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 ふくふく太った丸い月が、夜空にぽっかり浮かんだ夏の日のことでした。  六年生の灯(ともす)は、買ってもらったばかりの赤い自転車を押して、海沿いの道を歩いていました。ざざ、ざぁ、と心地よく響く波の音を聞きながら、ガードレールに沿って真っすぐ進んでゆきます。  今日は、火曜日。本当なら、塾へ行かなくてはいけない日です。  でも灯は、授業がはじまる十七時になっても、塾へ行くことができませんでした。駅前にある、まぶたの裏がじんと痛くなるほど眩しい光を放った『真田学習塾』の自動ドアの前を、それでも何度かいったりきたりはしたのですが、どうしても中へ入ることができなかったのです。  ママが――いえ、ママ、と呼ぶのはもうやめたのでした。  お母さんが灯を真田学習塾へ通わせだしたのは、六年生になったばかりの、春のことでした。 「灯も今年受験生だし、そろそろ勉強に本腰をいれないとね! 大丈夫、心配しなくても、絶対合格できるよ。なんてったって、あなたは素晴らしい才能を持っているんだから」  才能。  その言葉を聞くと、喉のあたりがぐっと苦しくなります。 「そんなの、持っていないのに」  ぽつん、と灯は呟き、それから、はあ、と大きく息を吐き出しました。  お母さんの言う“才能”が何を指すのか、灯はきちんと理解しています。  灯は、四年生の時に一度、市の小学生絵画コンクールで金賞をとったことがあるのです。応募数が六百以上もある中での、一等賞でした。  市からそのお知らせを貰った時、お母さんは顔を真っ赤にして大喜びをして、その日の夜はお寿司とピザを出前で頼んで、更に大きなお肉とケーキまで買ってきてくれました。そしてしきりに、「お母さん、灯には秘められた力があるってわかってた」「やっぱりあなたは、他の子と違うのよ」と、灯のことを褒めました。  お父さんも、いつもは生意気な二つ年下の妹のひかりも、その時ばかりは灯を褒めました。家族みんなにお祝いされて、灯も嬉しくなりました。  でも。  ぎゅ、と自転車のハンドルを強く握ります。  お父さんのおさがりでもらった、灯の腕には少し大きい腕時計で時間を確認すると、十九時半を指しています。本来なら、ようやく塾が終わる時間です。きちんと行ってさえいれば、今頃こんな気持ちを抱えず、晴れやかな気持ちで家へ帰ることができていたはずなのに。 「……はあ」  思わず、大きな大きなため息をついて、灯は自転車をとめ、ガードレールをひょいと超え、その先に広がる砂浜へ一歩踏み出しました。  打ち寄せられた小さな貝や砂利をスニーカーが踏むと、じゃこ、じゃこ、というような音が鳴りました。  夜空に浮かぶ月の灯りが、海に金色の道を作っています。  ゆらゆら揺れる波の裾をぼうっと眺めていると、不意に、何かが聞こえてきました。  ――い。  お――い。 「……ん?」 「おーい――おーい!」  それは、人の声でした。  間違いありません。おうい、おうい、と灯を呼んでいます。でも、びっくりしてきょろきょろ辺りを見渡してみても、あたりには人の影はありません。 「こっち、こっち!」 「え……」  声は、なんと、海の方から聞こえてきました。 「う――うわーっ!?」 「こんにちはーっ! なにしてるの?」  そこには、男の子がいました。沖からだいぶ離れた海に浮かんで、大きな声で灯に話しかけてきます。 「な、なにしてるって、」  それはむしろ、こちらのせりふだ、と灯は思いました。  子どもだけで海に入ってはいけない、というのが、この町に暮らす子どもたちに課されたルールです。  とりわけ、夜の海には絶対に入ってはいけない、と、大人は皆口を酸っぱくして言います。夜の海は昼と違って、自分が今どのあたりにいるのかすぐにわからなくなってしまうから、あっというまに沖へ流されてしまうのです。このルールを破ると、とんでもないほど厳しく、それはもう厳しく怒られるのです。  いえ、怒られるからとか、そういうことを差し引いても。 「危ないよ! 早く上がっておいで!」  灯がそう叫ぶと、男の子は大きな声であははと笑いました。 「大丈夫だよー! 俺、ひれがあるんだ!」 「はあ――!?」  その時、ごうっ、と強い風が吹いて、灯は思わず目を閉じました。  そして次に目を開けた時、そこにはもう、男の子の姿はありませんでした。 「な、な――」  さっ、と顔が青ざめてゆきます。  もしかして――溺れてしまった?   どうしよう。どうしようどうしよう。  大人を呼ばなきゃ、でも、そうこうしている間に死んでしまったら? 今すぐ海に飛び込んで、助けにいくべきでしょうか。でもでも、灯はからっきし、泳ぐことができません。  するとその時、海面から、細い腕がにょきりと伸びたかと思うと、ひらひらと手のひらが揺れました。まるで、ばいばい、といっているみたいに。  暗い夜の海に伸びる白い腕が、灯はなんだか恐ろしくてたまらなくなって、 「う……うわーっっっ!」  と。大声で叫んで砂浜を駆けだし、大慌てで自転車に飛び乗りました。    これが、灯とナギの、はじめての出会いでした。
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