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「灯ー? ねえ、具合悪いの?」
次の日の朝、お母さんが灯の部屋の扉を三回叩いて、それでも起きて来ない灯にしびれをきらして、そう言いながら中に入ってきました。
「にいに、またずるだ。ずる休み!」
「こら、ひかり!」
隣の部屋から元気よく飛び出してきた妹のひかりの声だけが、するんと灯の部屋に入ってきます。まったくもう、と呆れた声を出すお母さんは、ひかりにも、そして灯にも呆れているようでした。
「病院行く?」
灯は上半身を起き上がらせて、それから首をふるふると横に振ります。どこも悪くないのに、病院になんて行ったって、なんの意味もありません。それに、これ以上お母さんに呆れられるのも嫌でした。
「大丈夫。学校、行く」
「そう。じゃ、早く着替えな!」
お母さんは安心したように――というより、満足したようにそう言うと、灯の髪をぐしゃぐしゃとかき回すようにして、それからさっさと部屋を出て行きました。
「あ、そう。それから」
そうかと思えばすぐに引き返してきて、部屋の外からひょいと顔だけを出します。
「昨日、真田先生から連絡があったんだけど……塾、行かなかったんだって?」
「……」
怒られる、と身構えた灯でしたが、意外にもお母さんの口からは出てきたのは、優しい言葉でした。
でも、それがかえって、灯の心をずきっと痛めさせます。
「……ねえ、あのね。べつにお休みしたっていいんだよ。そういう気分の日もあるだろうから。でも、次からそういう時は、まずお母さんに言って。必ずよ。無断でお休みして、先生だって心配してたし、それに――」
「ママー! お鍋! 沸騰してる!」
「えっ!? いけない、お味噌汁! 待って待って、今行くー! じゃあ、灯。そういうことだからね!」
お母さんはそう言うと、今度こそ大急ぎで一階のリビングの方へ降りてゆきました。
そこでようやく、灯はほっと息をつきます。
灯は昨日、家に帰るなり、ご飯も食べずに大急ぎでお風呂に入ってベッドに潜り込み、布団を被ってかたくかたく瞼を閉じました。夜の海に浮かんでいたあの男の子のことを、必死で忘れようとして、そうしていつのまにか、本当に眠りに落ちてしまったのです。
一晩あけると、あれはやっぱり夢だったんじゃないかなと、そう思えてきました。
きっと自分は、疲れていたんだ。何に疲れていたんだと訊かれるとちょっと困るけれど、うん、きっとそうだ。だからあんな、変なまぼろしを見たんだ――
「おーいっ!」
だから、ランドセルを背負って学校へ行く途中、そんな風に声をかけられて、心臓が口から飛び出してしまいそうになりました。
灯の暮らす町は、坂や階段が複雑に入り組んだ地形に何軒もの家が建つ、ちいさな港町です。玄関を開けてすぐに見える長い下り坂の向こうには、広い広い海が口を開けています。
小学校は、灯の家から歩いて十五分くらいの距離にあります。
海岸沿いを歩いていると、不意に、切り立った岩の影から、「おーい」と声が聞こえました。
はじめは、気のせいかと思いました。
いや、気のせいだと思いたかったのです。
しかし、
「おーいっ! そこの子!」
「うわーっ!?」
灯はびっくりして、思わず大きな声を上げました。近くを歩いていた同じ小学校の子どもが、驚いたように灯を見ます。
灯はあたりをきょろきょろと見回し、それから、なるべく目立たないように、自然に見えるように、荷物をガードレールの向こうの砂浜に落としてしまって、それを拾いに行くだけですよ、とでもいうように……とにかく、努めて気配を消し、砂浜に降り立ちました。
それから、声の聞こえた岩場の洞窟の方へ、大急ぎで寄ってゆきます。
「やっぱり、昨日の子だ。こんにちは!」
そこには、昨夜見た男の子がいました。相変わらず、海面から顔を出してゆらゆら揺れています。
「き、き、君……なにしているの?」
「なにって」
そこで灯は、ぎょっとしました。
よく見ると、男の子の耳のうしろには、扇状にできたひらひらしたもの――ちょうど、魚のひれのようなものがついています。
それだけではありません。
昨日は暗くてよく見えなかったけれど、細い腕から伸びた両手の指の間には膜のようなものが張り、それから、それから――
「に……人魚?」
それから。
両足があるはずの場所には、きらきら輝く鱗に守られた、尾びれがついています。
「うん、そうだよ」
男の子はそう言って、ちゃぷんとひれを波に揺らしました。
灯は思わず、背後を振り返ります。
でも、波や風に削られた岩でできた、この半円状の小さな洞窟(海食洞というのだと、前にお父さんが言っていました)は、道の方からは死角になっているはずです。
灯の視界には今、ごつごつした岩肌と、洞窟に張った海水と、まだらに差し込む陽の光と、それから――地平線の先まで続く海しかありません。そういうことに、ひとまず、とてもほっとしました。
岩の天井から差し込む光が、二人の間で踊っています。
男の子の濡れた黒い髪と、耳の後ろと足先に生えるひれ、それに、輝くうろこをしげしげと眺めてから、灯は口を開きました。
「僕……人魚ってはじめて見た」
「俺も、人間とはじめて話した」
男の子はそう言って、嬉しそうに笑いました。灯も、ようやく笑えました。
きんこんかん、と、遠くから始業のベルが聞こえてきます。あ、と思った頃にはもう遅い。今から行ったって、確実に遅刻です。
「ねえ、この音って、人間が結婚式をあげるときの音って、本当?」
「え?」
「姉さんが言ってたんだ。好き合った人間同士が結ばれて、結婚式を挙げる時は、大きなベルを打ち鳴らすんだって。でも……この音ったら、朝にも昼にも夕方にも、何度も聞こえてくるじゃないか! 人間の世界では、そんなにたくさん結婚式が開かれるの? 日に五度も六度も?」
ベル、というのは、チャイムの音のことでしょう。灯は「ああ」と笑って、答えました。
「これは、学校のチャイムの音だよ」
「チャイム?」
「うん。一日のはじまりと、授業がはじまる時と、一日の終わりに鳴るんだ。あ、あと、給食の時も鳴るっけ……?」
「きゅうしょく? って?」
「お昼ご飯のことだよ。毎日、違うごはんが食べられるんだ」
「へーっ。どんなものを食べるの?」
「どんな……ええと、昨日はぶどうパンと、コーンサラダと、なすが入ったスパゲッティだったけど」
「すぱ……?」
「スパゲッティ」
「すぱげ……」
「スパゲッティ!」
あはは、と灯は笑いました。あはは、と、人魚の男の子も笑って、半円状の洞窟の中を、ばしゃばしゃと泳ぎ回りました。飛沫が高く飛び、お日様の光に照らされて、きらきら光って見えました。
「僕、灯っていうんだ。水野灯。きみは?」
「名前は、ナギ」
ナギはそう言って、灯に向ってひれを向けてきました。何を求められているのかわからず、ぽかんとしていると、
「人魚の挨拶! ひれとひれを、そっと合わせるんだ」
と、ナギは言います。
「でも、僕にはひれがないよ」
「あ、そうか」
「ねえ、じゃあ、人間の挨拶をしない?」
「人間の?」
「うん。手を出して」
灯が言うと、ナギは灯が立っている場所の際の際まで近寄ってきました。
「こうして、手と手をぎゅっと握るんだ。握手!」
そう言って、ナギの手を包み込むようにぎゅっと握ります。
湿っていて、どことなくぬめぬめしたので、自分から握ったくせに灯は少し驚きました。でも、驚いた、というような顔をするのはナギに失礼な気がして、なんとでもないような顔をし続けました。
「あくしゅ……」
ナギは灯の言葉を繰り返して、それから、ぎゅ、と手に力をいれました。
指と指の間に水かきのあるナギの手が灯の手の甲を包むと、なんだかくすぐったくて、灯は笑ってしまいます。
「あくしゅ!」
それからナギは、嬉しくてたまらないというように、もう一度そう言って、灯と繋いだ手をぶんぶんと上下に振りました。
――その拍子に、灯はバランスを崩し、
「あ」
海の中に、ドボン、と落ちてしまいます。
視界が、真白く染まります。灯が落ちたことによって、あたりに泡がたったのです。意外にも、海の中で目を開いていても、痛むことはありませんでした。
それどころか――なんて、なんてきれいなのでしょう。
岩場の洞窟の真下には、小さな魚たちが何匹が泳いでいました。下を見ると、そう遠くない場所に白い砂や珊瑚が見えます。子どもの灯では足をつくのは難しそうですが、背の高い大人なら、ぎりぎり立つことができそうです。
「――――!」
水中で、しばらく目を開いていると、目の前をナギが横切りました。にこにこ笑って、くるくる灯の周りを泳ぎます。ナギのひれは透けるような青色で、それが海の中でゆらゆら揺れると、心臓の真ん中のあたりがぎゅうっとなるくらい、きれいでした。
「――ぶはあっ!」
やがて呼吸が苦しくなってきて、水面に顔を上げると、そこでようやく、鼻や目がツンと痛みだしました。げほごほと咽込む灯のことを、ナギが「あはは!」と笑っています。
「灯、泳ぐのへたっぴだなあ」
「だ、だってそんな――」
「見ててよ、こうするんだ!」
大きな声でそう言うと、ナギは洞窟の中をすいすいと泳ぎ出しました。力なんてまったくいれていないような泳ぎでした。
やがて、洞窟の先に繋がる大きな大きな海の方へ出ると、時折ひれを海面から出したり、水面から軽く跳ねてみせたりしながらあたりをいったりきたりしてみせています。
「簡単でしょ?」
戻ってきたナギが、きらきらした目で灯に言います。ナギの目はひれと同じで青色でした。でも、映画で見るような外国の人が持つ青色の目とは、また少し違って見えます。ナギの目は、海をまるごと飲み込んだ宝石のようでした。
「簡単じゃないよ。人間は、水の中で息をすることができないんだから、泳ぐのだって一苦労なんだよ」
「たしかに、このひれじゃあ泳ぐのは難しそうだね」
「これはひれじゃないよ。足」
ぺちぺちと、ナギが半ズボンから伸びる灯の足を手で軽く叩きます。「これはあし」とナギが繰り返します。
「うん」
「あし――足」
「うん」
不思議な時間でした。不思議で、ちょっと変な時間でした。
やがて、思い出したように遠くの木立から蝉の鳴き声が響いてくると、ナギはハッとした顔になりました。それから、何かを確かめたがっているように灯の目をじっと見て、こう続けます。
「ねえ、灯。これからも、遊んでくれる? 友達になってくれる?」
「友達?」
ナギのその言葉は、灯の心にパッと花を咲かせるようでした。
「うん。ずっと夢だったんだ。人間と友達になるの。だめかな?」
「う、ううん――だめじゃない。いいよ」
「本当? やった!」
ナギはそう言うと、ひれをばしゃばしゃさせて喜びました。水しぶきが顔にかかって、灯は「うわっ! やめろよ!」と抗議の声を出します。でも、本当は全然いやじゃありませんでした。やめろよ、なんてちょっと砕けた言葉を誰かに言うこと自体はじめてで、なんだか胸がどきどきといっています。
灯は結局その日、学校へは行かず、一日中ナギとお喋りをしました。
ナギの話す海の世界の話は、いくら聞いていてもまったく飽きませんでした。
強い魚から身を護るために、群れを成して泳ぐ魚たちのこと。その群れに、時折こっそり混ざって泳いでみているのだということ。
岩の根をびっしりと覆う色鮮やかな植物があること。女の子の人魚は、その植物をうまく使って髪飾りやアクセサリーを作るらしいこと。
ぼんやり泳いでいたら、ナギの体なんて丸々飲み込んでしまえるくらい大きな口をあけた魚が突然目の前に現れて、心臓が飛び出しそうになったこと。でも、ナギ以上に相手の魚の方が驚いた様子だったらしく、それがとても可笑しかったということ。
それから、ナギの家族の話も聞きました。
七人もいるお姉さんは、揃いも揃って気が強く、末っ子でなおかつ唯一の男の子であるナギは、しばしば姉たちの言いなりになっていること。でも、姉たちがナギのことを大好きで、大切にしてくれているということは、ナギ自身ちゃんとわかっているということ。厳しいけれどとっても優しいお父さんのこと。
それから、今はもういないお母さんのこと。
「お母さんは、とてもとても歌が上手だったんだ。お母さんが歌いだすと、まわりに色んな魚が寄ってきて、みんなひれをひらひらさせて喜んでいた。魚だけじゃなくて海藻だって、歌声に合わせて嬉しそうに根を伸ばしてさ」
「自慢のお母さんなんだね」
「うん」
ナギは、誇らしそうに笑いました。
どれくらいそうしていたでしょう。真上に浮かんでいた太陽は、いつのまにか水平線のすぐ近くまできています。
「いけない! 灯。ここ、夜になると潮が満ちて海に沈んでしまうんだ」
「え……わ、本当だ!」
確かに、洞窟の足場は朝に来たときよりもだいぶ水位が上がっています。
灯は背の高い岩に引っ掛けていたランドセルを慌てて手に取り、前に抱えるような形にしました。ランドセルと違い、近場に放っていたスニーカーは半分ほど海に沈んでしまっています。
「ナギ、今日はありがとう。また来るね」
「うん。また!」
砂浜に行きつき、周囲に人がいないことを確認してから、灯はナギに別れを告げました。濡れた足を、同じく濡れたスニーカーにねじこむと、ぐじゅ、という嫌な音がしましたが、気にしていられません。前に、サンダルが海に流されてしまって仕方なく裸足で家に帰った時、途中でガラスを踏んでしまい、怪我をしたことがあったのでした。
そんなことを思い出しながらガードレールを越えると、ふら、と立ち眩みがしました。考えてみれば、灯は朝ご飯を食べたきり、何も口にしていません。それに、一日中ゆらゆら揺れる波を眺めて、足場の悪い岩の上にいたからでしょうか、陸の上を歩こうとしても、なんだかふらふらとおぼつかない足取りになってしまいます。
ちらり、と後ろを振り返ると、岩の影に体を半分隠しながら、ナギがブンブンと大きく手を振っています。
でも、昨日と違って灯は、その手をもう不気味だとは思いませんでした。
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