4

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

4

 父の死以降この地に戻ってきて三年が経った。私がここに戻ってきてから母は畑の維持管理を私に完全に引き継ぎ、そして半年前にすっと父のもとへと行ってしまった。母は死の三日前にこの畑を未来永劫維持することだけは約束してくれと言い含めて行ってしまった。それ以降一人でこの畑の維持管理をしている。畑という免罪符を手に入れた私には莫大な課税の義務は無くなったわけだが、母が死んだ時に実家にある軽トラで一時間程の地方都市まで行き、新しい葉緑体インプラントを受けた。今度は施術と療養を含めても半日で終わった。私が最後の植物として選んだのはエンドウ豆だった。タンパク質を構成できる畑の肉。これで私は空気中の炭素だけでなく、窒素も体内に固定することが可能となった。そのこととは妙に私を興奮させた。                *             朝六時に起きるとすぐに私は畑に出て、野菜の様子を確認しながら水やりをする。昨日の強風でトマトの茎は折れていないか、ジャガイモは害獣に掘り起こされていないか、ニンジンの葉に害虫は付着していないか、水やりをしながらすべての野菜を見回すのが私の朝一番目の決まった作業である。結局、父母よりも野菜の種類は少なく二十種類を育てている。夏野菜にとって水やりは何よりも重要な作業である。植えたばかりの根付いていない野菜は日が強ければ、すぐに枯れてしまう。延々と続く畝の間を長いホースを引きずって歩き回る。すべての野菜に水やりを終えると、野菜の手入れを始めた。容赦なく降り注ぎ始めた太陽光の下で五十メートル以上ある延々と続くナスの畝にしゃがみこみ育ち始めたナスの脇芽を一つずつ取り除いていく。立ち上がり背を伸ばしながら、このひと手間がナスの多作につながることを私だけは知っているという優越感に浸りながら、夏の雲一つない空を眺めた。今日はさらに暑くなるだろうと思った。脇芽摘みが一段落すると次は秋撒き野菜用の畑の土壌改良のため、鍬を奮った。この畑は昨年までエンドウ豆を育てていた土地で、今年は秋に大根の種を撒く予定である。それまでにここを耕し、アルカリ性で肥沃な土壌を作っておく必要がある。そんなことを考えながら、鍬をふるい続け、一時間になる。額から大粒の汗がしたたり落ちて乾いた土地に黒色の斑点を付ける。鍬を奮う度に真っ黒に焼けた太い右上腕の内側から生えた紫がかった大振りの緑色の葉が綿のシャツと擦れて変な音を立てる。数週間前に体表面から葉が生えていることに気が付き、それは夏の日差しを存分に浴びて少しずつ成長した。それは明らかにナスの葉だった。私の右上腕に生えている大きく肉厚で僅かに毛の生えた緑色の扁平なそれは明らかにナスの葉なのである。ただ私が驚くことはなかった。農学研究者だったのだから葉緑体インプラントを施した時からこうなる事は予想が付いていた。これまで葉緑体インプラントをした人間から葉が生えたという事例を聞いたことがなかったが、あと数年すれば葉だけでなく花を咲かせたり、結実する人間も出てくることだろうと私は夢想した。ふと肩を搔いていると小さな羽虫が肩に止まっていた。首を回してよく見ると肩から生えた肉厚の葉の表面に数匹のアブラムシがとまっている。私はそれを葉ごとむしり取り、畝間のあぜ道に捨てた。畑の土壌改良は道半ばだが私は一度軽トラに戻り休憩するため、長いあぜ道を戻った。  不安定な軽トラの荷台に腰掛けて、やかんの水をがぶりと飲み、今朝自分で作ってきた弁当を開く。畑でとれたニンジン、玉ねぎの煮物と白米だけが入っている。玉ねぎを一口食べて、延々と空まで続いていそうな長い畝と育ち始めたナスの苗、ジャガイモのかわいらしい紫の花、伸び始めたサツマイモのつるを眺めて、一口水を飲む。一匹のモンシロチョウがどこからか飛んできて私の周りをちらちらと飛んでいる。少し目が出始めたスイカの双葉を産卵場所に選ぼうとしているのかもしれないが、それは避けたかったので私はモンシロチョウを踏み潰した。軽トラは毎日大きな楡の木の下の日陰に止めている。日陰で静かに座っていると作業中には感じなかった土のにおいを感じるのは不思議なものだ。弁当を食べてしばらくすると腹が膨れてくる。昔よりも腹が減らないので弁当はわずかな量で足りる。食が細くなったのは、三度の葉緑体インプラントで私自身の光合成効率が高まりでんぷんの体内生成量が増加したことと、強烈な夏の日差しのせいだろう。私は緑色農夫として自らの体で光合成をしながら、父母から受け継いだ畑では野菜を育て、そしてそれを食らう。私はやかんの水を飲むと、先ほどまでしおれかかっていた右上腕のナスの葉が少し勢いを取り戻したように見えた。               *  祭りのように夏野菜の収穫がほとんど終わった。最後までしぶとく残っているナスの実の収穫が終わると、畑にはこの夏猛烈に成長し、散っていった野菜の痕跡だけが残る。今日、私は夏に耕し土壌調整を終えている畑に新しい畝を作り終えた。明日はその畑にエンドウ豆の種を撒く。秋撒きの野菜の種蒔きが始まる時期だ。夕暮れ時の畑には人影はなく、ひと夏の役割を終えた草木の中で、私という一つの多年生植物が立ち尽くしている錯覚に陥った。夕暮れに聞こえるのは、少し冷えてきた夜風に草木がそよぐ音とカエルの鳴き声だけである。草木のそよぐ音の中に、私の体表面の三種の葉音が含まれているのは言うまでもない。私は緑色農夫として自分が野菜を育てる野菜になったことを実感した。夕日が地平線の下に消えかかり、最後の橙色を発している。踏み固められた畑のあぜ道に立ち、萎れた葉と首元にわずかに残った小さな実をつけた我が身を夜風に晒していると、私自身は意思を持った多年生の植物なのか、それとも光合成の出来る動物なのか、その区別が曖昧になる。 秋撒き野菜の季節が始まる。虫がいない冬の野菜栽培は私の好むところである。私は光合成と呼吸をする移動性多年草であると共に、野菜を作り、野菜を食す緑色農夫なのだ。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!