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最終時限が終わり、教壇上の資料を片付けていると窓の外はもう薄暗かった。腕時計を見るともう六時過ぎだった。 教室に背を向け、ホワイトボードに書いた自分の文字を消していると、背後に気配があった。気にせず最後の右隅まで消し終わるとすぐに声をかけられた。 「先生、ちょっと今お時間よろしいでしょうか?」 粘り強く私を待っていたのは誰だろうと、振り返るとそれは三年生の市川だった。瞬時に誰だか認識できなかったが、後ろに縛った長い黒髪と紺色の無地のセーターという出で立ちで目の前の学生が市川だとわかった。普段から教室の前の席に座り、その紺色のセーターと飾り気のない髪型がよく目に付いていた。それに市川のことを覚えていたのは成績が優秀なためだった。 「時間ありますよ。何か授業で理解できないところがありましたか?」 私がそう尋ねると市川は来年の卒業研究で暁烏研究室、つまり私が在籍する研究室に入りたいということだった。 「大歓迎ですよ。ぜひ来てください。ご存じだと思いますが暁烏研では様々な植物の葉緑体インプラント適用について研究していますので、来年にはぜひ研究室に来てください。」と市川に伝えた。 「それともう一つお聞きしたいことがありまして・・・」と市川は言いにくそうに切り出した。 「実は葉緑体インプラントを受けようかと思っています。先生が葉緑体インプラントを受けたことがあるということを知り、ご相談させて頂きました」  大学生が葉緑体インプラントを受けるということに私は驚くと共に不思議に思った。 「不躾なことを聞いて申し訳ないが、なぜ葉緑体インプラントを受けようと思ったの?世間的に推奨されているから?うちの研究室を希望しているということは単純な興味とか、それとも他の理由で?」  私はすぐに疑問を投げかけると、市川は煩悶する素振りを見せた。 「もちろん葉緑体インプラントに興味があり先生の研究室を選んだのは事実ですが、施術を受ける直接的な理由は恥ずかしい話ですが金銭的なものです」  市川の声は消え入りそうで、私は申し訳ない気持ちになり理由を聞くべきではなかったと後悔したが後の祭りだった。 「実家が貧しく生活費と学費は私のアルバイトで賄っていました。来年から始まる卒研のため時間が限られアルバイト代だけでは足りないため葉緑体インプラントを受け、より多くの控除を受けようと思いました。あらゆる行動が課税され、呼吸すら持続可能な地球にとっては悪です。地球のために人間が持続可能でなくなってしまう。私には本末転倒に思いますが、偉い人の考えることは私には理解できません。すみません。愚痴です。先生は関係ないのに。」  私は黙ったままだったが市川は明るいふりをしてこう続けた。 「葉緑体インプラントの施術をした方は周囲に先生しかいません。どの植物が良いのでしょうか。ご存じでしたら教えてください。人体に害はないと言われていますが、施術に不安があります」  市川は再び作り笑顔を見せた。私が施術を受けたのは市川のように経済的なものではないが、はっきりとした理由を見いだせていなかった。そんなことは市川にとって無関係なので私は市川に役立つと思われる現実的な話をすることにした。 「まず一つ勧める植物はトウモロコシ科だな。税の控除率が高いんだ。光合成効率で控除率が変化するのは知っているかい?イネ科は従来から控除率が高く人気があるけれど最近トウモロコシ科の控除率の方が高くなったんだ。研究結果を反映した形だな」 「それは知りませんでした。ありがとうございます。ところで先生は何の植物のインプラントをしたのですか?」  何も悪いことをしているわけではないのに私はギクリとした。 「私はナスだよ。ただ私が言うのも変な話だがナス科はやめた方が良い。光合成効率が低く、控除率も低いうえに、私自身八年たった今になってこれまで報告されていない弊害を感じ始めている。肌がナスに含まれる色素成分であるナスニンで紫色を帯びてきたことだよ。葉緑体インプラントにより体表面が緑色を帯びることは僅かな症例として知られていたが、まさか紫色になるとはね。身をもって体験したことになるな」と私は笑いながら胡麻化した。ちらりと市川の顔を見ると、私がナスを選択したことに対し違和感を持っているようには見えなかった。市川は両親と一緒に都内に住んでいるようだが、植物を育てるための土地や資産もなく、税の控除を受けずに大学に在籍し続けることは難しいと言った。私は貧困学生が満足に勉学に取り組むことができない現状に改めて衝撃を受けた。市川は施術のため二週間講義を休むことを私に告げ、来週に施術を受けてきますと言い教室を出ていった。                *             二週間が過ぎたが市川が講義に出席することはなかった。あの日相談に乗った手前、心配になり一か月程が経ってから私は大学の総務課に市川の動向を聞いた。総務課で聞いた結果は驚いたことに市川は学費未払いにより一か月前にすでに除籍になったということだった。相談を受けた時はすでに除籍されていたのである。さらに半年前から学費未払いの状態だったようである。相談の時点で市川に選択肢は残されていなかった。 そのことを聞き愕然とした後、すぐに思ったのは、地球上で人間が持続的に生き延びるためには人間という存在そのものが変わる必要があるということである。ただそれには前提条件があり、生きていくために自らの体を変える必要がある人間と、変える必要がない人間が存在するということである。八年前に私が感じた違和感の正体はこれだった。強制的に変化しないと生き延びられない人間と変わらなくても生き延びることができる人間の存在。富める者と貧する者の間で、生体的な分化の瞬間を私は目の当たりにしたのである。 私はそれから二度目の葉緑体インプラントの施術を受けることを決めた。それは貧するものへの憐憫なのか、分化した人間の輝かしい未来を確信したためだったのか、気持ちは整理されなかったが今は行動を起こしたかった。一度目は好奇心で研究対象のナスを選択したが、二度目は生体的な実効面を考慮してアブラナ科の大根を選択した。大根は寒さに強く冬にも育つため虫がいない環境で育ち、寒い時期でも抜群の発芽率を誇る。もちろん夏にも育つ。ナス科が入ったことで私の体は夏に強くなったが、これで冬にも強くなる。被施術者に人気の控除率の高いイネ科やトウモロコシ科を選ぶほど私は割り切って考えられなかった。それは私の研究者としての意地だったのかもしれない。 今回の施術は八年前に大学病院で受けたのとは異なり、近くの県立病院でより手軽に受けることができた。体への負荷も軽減され、前回よりも短い自宅療養で済んだ。大学への復帰後しばらくして、田舎に住む母から久しぶりに電話がかかってきた。それは父病死の連絡だった。唐突な父の死だった。
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