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父の死の連絡を受け、私は葬儀のため十年ぶりに実家へ戻ることにした。そこは都内から新幹線と在来線と一日三本しかない村営バスを乗り継いで、片道七時間以上かかる東北山間部の辺鄙な場所である。私が住んでいたのは三十年程前の高校生の頃だが記憶の中でもすでに畑以外は何もない場所だった。そこは山間部を切り開いた集落で、実家の土地だけでも10ha程の畑があり、三十種類以上の野菜が育てられていたと記憶している。その広大な土地を父母だけで管理しており、私や妹が手伝うことはなかった。私は都内の大学に進学後、実家を離れ、その後はほとんど実家にも帰らなかったが、妹も同様に実家にほとんど帰っていないようだった。妹と会話をした記憶は高校時代まで遡らないと思い出さない程だった。記憶まで錆付いた場所に、父の死によってもう一度呼び戻された気がした。               *             私は通夜から出席したが、妹は次の日の葬儀にだけ出席するということを喪主である母から聞いた。集落の大きさに比べて葬儀場の巨大さはどこの田舎町でも同じなのかもしれない。過疎認定地域のはずなのに田舎に行くと葬儀場ばかりが目立つ。この集落には葬儀場と火葬場が一つずつあるが、それはとても巨大で立派な建物だった。葬儀の準備のため私は母の手伝いで、飲料のペットボトルやビール、軽食のサンドイッチやお茶菓子を母の指示通りに近くの小さな商店まで買い物に出かけた。商店から帰ってくると母が誰かと言い争いをしていた。母と似た顔をした厚化粧の女はなにやら母を問い詰めている。私は言い争いに巻き込まれないように離れたベンチにそっと座り、二人の会話を聞いていた。父の体調が悪化していたことをもっと早くに知らせてほしかったと何度も母を非難した。それに妹は私と同じように都内で働き、まだ独身であるようだった。妹が母への非難を続けたので、私は、こんな時にもうこれ以上母にひどいことを言わなくてもよいだろうと妹を咎めたが、妹はそんな言葉に耳を傾けず、母の前でいい顔をしたいだけだろうと、逆に私を非難の矛先を変えた。これが妹との数十年ぶりの会話だった。焼香に集落の数十人が来て葬儀は滞りなく終わった。火葬場で小さな骨になってしまった父を見ても、私には現実味が湧かず涙はでなかったが、母はおろおろと泣いていて、それが辛かった。実家に戻り、父の収まった小さな骨壺を仏壇に置いていると、横から割って入った妹が線香を一本あげて、泊って行ったらよいのにと引き留める母の声など聞こえないかのように、明日仕事だからという言葉だけを残し、夕方にはさっさと帰京してしまった。先程まで父の思い出話をしていた集落の老人達が帰り、母とその片付けを終えると呆然自失としたがらんどうの空間だけが広がった。               * 実家は大屋根の古い平屋の母屋と同じ敷地内の小屋があった。その小屋に私の勉強机が置いてあり、小学校の高学年に入ってからはそこで勉強していた。妹は母屋内の広間の一角に勉強机を置き、高校に上がるとそこにレールカーテンを新設し個室のようにしていた。私は寝食を母屋で過ごし、それ以外の時間はその小屋で過ごした。この地域は夏涼しく、エアコンが無くとも快適だったが、冬の寒さは厳しかった。小屋では達磨ストーブに薪をくべ、その上のヤカンがいくら騒がしい音を立てていても隙間から冷風が入り、部屋が暖かいと感じたことはなかった。                              *  静まりきった居間のソファに座り、薄暗い天井と煤けた梁を眺めながら私は過去に思いを馳せた。もう二度と小屋の勉強机に向かうことはないだろうが、両親はなぜ私にこの小屋を与えたのだろうか。私は小屋が嫌いだった。それに畑以外何もない集落も、不機嫌な父親も性悪の妹も嫌いだった。だから小屋の勉強机に高校三年間かじりついた。ここを逃げ出してすべてが手に入る都市部に一刻も早く行きたい、それが当時の私の原動力だった。 しばらくして母の作った多くの料理が広間のテーブルに並べられた。ナスの煮浸し、キュウリやトマトのサラダ、ジャガイモのフライ、大学芋、ニンジンのきんぴら。口にしたそれらはすべて懐かしい味だった。母曰く、全て、死の直前まで父と共に管理していたこの畑でとれた野菜である。懐かしい味に舌鼓を打つと、昔の何十にも絡まった思い出が解かれていく気がした。 食事がひと段落したなぜ私だけ小屋を与えられたのだろうと母に質問した。母からの返答は初めて聞いた事だった。母の語る父の言葉によると、ここには畑しかないから子供二人を何としても都市部へ送り出してやりたかったということだった。父の思いを母として長い間伝えられなかったことを申し訳なかったと母は言った。 私は母の言葉を聞いて驚いた。父は私のことなど気にも留めず、代々引き継いだこの広大な土地で野菜を育てることが唯一の正道でそれ以外は認めないと思っていたのだから。しかし、まったくそんなことはなかった。  父さんがそんなことを考えていたなんて知らなかった、と言うと、そうかねと母は静かに言った。母は私の思いなど知らないのだろうが、いまさら何も話すことなどなかった。年を取った母に何かを咎めることは私には到底できない。無音の間があり母が口にしたのは、都市部の暮らしはどうだいという、ありきたりな質問だったので私は笑い出しそうになった。生涯一度もこんな辺鄙な場所を離れたことのない母にとって都市部は想像もできない場所だろう。何も知らない母に私は都市部の風景、そして今の都市部を取り巻く状況を伝えた。課税制度は都市部も田舎も同じだが、都市部では個人で緑化用の土地を持つことができる人は少なく控除を受けられないため苦しい生活を送っていることや私の受け持った学生も葉緑体インプラントを施術したこと、国の施策は都市部に住む貧困層を追い込んでいることを話した。母は異国の話でも聞くように相槌を打っていた。ただ両親は五十年以上、今も昔も同じように野菜を育てて生きてきたわけだが、現在の都市部の苦しい現実を知ることなく、過去に隆盛を極めたすべてが存在した時の都市部の姿が今も続いていると思っていたのである。両親はテレビや新聞のニュースを聞いていただろうが、限られた情報は都市部の現実を伝えることはなかったのだ。母の相槌が聞こえなくなったと思ったら、母は船を漕いでいたので、そっと居間の電気を消した。一人で居間に敷いた布団に寝転がり天井の煤けた梁の割れ目を眺めているとかつて私は父母が暮らし続けたこの田舎がこの世の理想郷に変わりつつあるのではないかと思った。父母はこの五十年、広大な畑を維持管理していたため一銭も税金を払わず、物々交換と自分の畑で採れた野菜を食べ暮らしていた。そんな暮らしを五十年続けながら、都市の理想郷を思い描いていたのだろう。父の死と母の不安そうな顔、そしてこの場所に理想郷を感じた私は大学教員の職を捨て、ここに戻り、広大な畑を引き継ぐことを決めた。
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