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「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。それは大学病院の一室で葉緑体インプラントの施術を受ける前に医師から告げられた言葉だった。八年前に施術を受けたことのある人間は大学教員の同僚はもちろんのこと、周囲の学生にも、大学時代の同級生にも誰一人としていなかった。今も昔も変わらないが、あの時も日本中では『持続可能な地球』のためというお題目の下『脱炭素』の三文字が声高に叫ばれ、非協力的な態度を見せたものは世間からの痛烈な批判に晒された。それはごもっともだが私は内心そのヒステリーにも似た熱気に冷ややかな視線を注ぐ一人だった。しかし独立独歩を謳う大学法人においてさえもその熱気を無視することはできなかった。かくいう私も農学部のしがない大学教員であり昨今官民で開発競争が激化している葉緑体インプラント研究の末席にいた。葉緑体インプラントは細胞単位で人体へ葉緑体を移植する施術で、複数種類の植物を移植するにつれて人体へ高い負荷がかかることが知られていたため、葉緑体インプラントは被施術者に対し三回までと法律で定められていた。医師の説明は法律上義務付けられている説明の定型文だった。八年前に私に施術受けることを決めたのは、あの時代に通奏低音のように流れていた閉塞的な空気感が最後にそっと私の背中を押したとしか言いようがないのだ。                *             当時、二酸化炭素、メタン等の温室効果ガス(Greenhouse Gas)の排出規制とそれに対する課税(GHG tax)は先鋭化しており、日常生活で排出されるGHGは化石燃料の燃焼に始まり、人間の呼吸にまであらゆるGHGが課税対象となっており、言葉通り息苦しいものだった。その一方でGHGの削減量の売買、いわゆるカーボンクレジットが導入され、それに応じ税金の控除や補助金が給付されたりした。農家による野菜栽培も、林業の植樹もすべて控除対象となり、GHGでの税収が専業農家や林業経営者に還元されるようになった。ただそれは個人の活動にも適用拡大されたため、専業農家だけでなく個人が農業用地を求めた。それにより土地価格は上昇した。都市部で不足する土地と加熱するGHG taxは栽培成果物のインフレを招き、価格は高騰した。この価格高騰で都市部にて土地を持たない人間がいかにGHGを削減できるのかという目的で開発されたのが葉緑体を人間に移植する技術、葉緑体インプラントだった。炭素を石油や石炭として固定するためには長い年月がかかる。一方、植物は日々空気中の二酸化炭素を常に吸収し、でんぷんとして固定しているし、豆類は窒素を固定する。その機能を人間に適用するのが葉緑体インプラントで、それが私の研究対象だった。葉緑体インプラントのメリットは光合成による二酸化炭素の削減と体内でのでんぷん生成による食糧不足の解消である。葉緑体インプラントを施術すれば水と二酸化炭素があれば、でんぷんと酸素を体内で生成することができるようになるのだから、その効果は図りしれない。そこで国は葉緑体インプラントの被施術者に様々な免税処置を制定し、これにより都市部で暮らす土地を持たない貧困層は挙って葉緑体インプラントを自らの体に施していった。                           *  施術後は植物と人体との干渉による消耗が大きいため、一か月程の休暇を貰うことを事前に上司の暁烏教授に伝えることにした。教授にそのことを伝えると私が想像していたよりも教授は驚き、「なんで君が葉緑体インプラントを受ける必要があるんだ?君は葉緑体インプラントの有用性を検証する立場にある研究者であって被験者ではないだろう」と言った後に、慌てて「君の行動を否定しているわけでは決していない、ただ驚いただけだ」と言った。 珍しく口数の多い暁烏教授の言葉にこそ葉緑体インプラントの真意がある気がした。そして暁烏教授は「この技術は社会のためにも地球のためにも、持続可能な人類のためにも有用であり不可欠なものなのだ」と言い、私の背中を軽く叩いた。 「しかし、まさか君の研究対象であるナス科をインプラントに選ぶとはね・・・ナス科のもつ潜在的な可能性は君が一番よくわかっているとは思うが、他にも光合成効率が良く、税の控除率が高いイネ科という選択肢もあっただろうに」と暁烏教授は苦笑いした。ナスは生育時に養分を大量に必要とするため連作障害が生じやすく、夏の暑さに強いが寒さや乾燥には弱く大量の水分を必要とし、そしてナス皮の色素ナスニンは抗酸化作用がある。私はこのナスニンの抗酸化効果を人体に取り組むことを目的の一つとしていた。 暁烏教授と話しているうちに、世間的には良いものとされている葉緑体インプラントを周囲の人間が誰も受けていないという奇妙な状況に対し、私自身が身をもって葉緑体インプラントの効果を証明したかったのではないかと思った。
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