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「おくすりの研究? どんな薬かね? そんな君が、小説家の僕にどんな用があるのかね?」
「はい。先生の方から、僕のおくすりを試してみたいという大変に光栄なお話をいただきまして、さっそく馳せ参じた次第でございます」
「そんな事を言った記憶はないが。まあ、いいだろう。とりあえず、君の家で詳しい話を聞こうじゃないか」
40男は、妙にヘコヘコと頭を下げて、ニタニタと愛想笑いを続けていた。
その男の家は、古びた小さな洋館で、玄関を開けると様々な薬品が入り混じった消毒剤のような臭気が充満していた。
「どうぞ。そちらのソファーにお座り下さい。タバコは遠慮なく、自由にやって下さい。近くに火に反応するような薬品は置いてありませんからご安心下さい」
「わかりました。しかし君、随分、散らかしているなぁ。化学実験というものは、周囲の環境を清潔に整えなければ正確な結果が得られないのじゃないかね」
「いやはや、芥川先生のおっしゃる通りです。男の一人暮らしゆえ、なかなか片付ける暇がありませんで」
「どうして結婚しないのです?」
「つい研究に没頭しているうち婚期を逃しまして」
「そんなに熱心に何のおくすりを研究していらしたのです?」
「なりたい自分になるおくすりです。どこからか、その話を小耳に挟まれた芥川先生の方から私に連絡を下さったのですよ」
「そうですか。おかしいなぁ。僕は、そんなおくすりを飲みたいとは思わないが。せっかく、ここまで来たのだから、ものは試しだ。そのおくすりとやらを飲んでみよう」
「ありがとうございます。ところで芥川先生は、どのような人間になりたいのですか? 先生ほどの天才でも、憧れている人間がいるのでしょうか?」
「あははは。そうだなぁ。例えば、その姿になっても、また元に戻れるなら、私は河童になってみたいのだが。どうかね。そのおくすりとやらを飲めば、人間じゃなく河童にもなれるのかね?」
「河童でございますか? いやぁ、どうでございましょうか。仮に、それらしき姿になれたとして、万が一にも元に戻れなくなったら大変でございます」
「いや、僕は河童になれるものなら、河童のまま一生を過ごしても構わないよ」
「芥川先生ほどの有名人が河童になってしまわれましたら、世間は大騒ぎになります。僕のような小心者には、世間にどのような申し訳をすれば良いか、責任を取りかねます」
「何だ。不甲斐ないな。自分が一生を賭けて研究した成果を世間に知らしめる絶好のチャンスではないか。そんな弱腰では大成できんぞ。さあ、そのおくすりとやらを出したまえ。早速、試してみようではないか」
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