初日

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初日

 初日は薬に対する説明と、入院中の行動制限や、食事睡眠等の時間割りを再び聞いた。  女医の抑揚の無い口調が、するすると頭の中に入っていく。内容自体は他の治験と変わり映えしない。慣れ親しんだものだ。 「質問はありますか?」 「大丈夫です」 「そうですか。では何かありましたら、来室時か待合所にある電話でお知らせください」  そう言って病室を出ていく女医。まるで老舗旅館のような受け答えで、少し笑ってしまった。こっちの方が金を貰う立場なのに、至れり尽くせりだ。  いよいよ明日から投薬が始まる。それ故、激しい運動と飲酒は御法度(ごはっと)だ。逆を言えば、それ以外は自由の身となる。  ようやく一息ついた俺は、改めて病室の中を見回した。  白を基調とした壁と天井、備え付けのロッカーと質素なテーブル。テーブルの上には小型テレビが置かれており、下のスペースには無駄なく冷蔵庫が収まっている。それと安っぽそうなゴミ箱と、丸椅子が一つ。  やはり目を引くのはベッドで、枕元の周囲と足元に手すり柵が設けられている。ナースコールの類は付いていない。室内は適温で常に換気もされていた。他の治験で味わったカーテンで仕切られただけのタコ部屋と比べたら、天と地ほどの差だ。  二週間と言わず、飽きるまで暮らしたいと思った。  簡単に荷下ろして、俺は窓の方へと向かう。アルミ製のブラインドを上げると、外は一面が緑色の田畑が広がっていた。見ているだけで蒸し暑さが伝わってくる。何かの気の迷いくらいでしか、もう外を覗くことは無いだろう。俺はブラインドを下ろした。  ロッカーから水色の検診衣を取り出して着替える。ゆったりとパジャマのような着心地。微かに柔軟剤の香りが鼻につく。  さて、夕食まで暇になった。ここからは参加者によって個性が出る。持ち込んだポケットWi-Fiに繋げてパソコンやらスマホで時間を潰したり、読書に(ふけ)る人も居るだろう。  俺はバッグからノートと筆記用具を取り出して、テーブルの前に座った。丸椅子の座り心地は悪かったが、そこまでの贅沢を言ったら罰当たりだ。  ノートを開いて、より詳細に『今回の治験について』を書き(つづ)っていく。入院時の流れや、部屋の内装に至るまで。これも立派な飯のタネだ。  初めは体調管理に書き始めた日記だったのだけれど、途中で『これをメディア化すれば儲けられるのでは?』と考えた。  実際、治験に関する動画やブログは(わず)かだが作られており、まだまだ開拓の余地がある――(たがや)しがいのある畑だ。こうして治験を受けるだけでも金になるし、さらに自らの体験を記録することで後々にも活かせる。あざといようにも思えるが、これで治験の参加者が増えれば、それはそれで社会貢献にもなるだろう。  一石二鳥。いや、それ以上のメリットだ。やらない手はない。良い暇潰しにもなるしな。  夢中で書き連ねること一時間半、一回目の夕食が運ばれてきた。  容器がプラスチック製の弁当だ。食べ終わったら割り箸と一緒に、部屋のゴミ箱に入れろということらしい。  問題となる中身を見て……俺の口角は自然と上がった。  当たりだ。コンビニのハンバーグ弁当を、さらに豪勢にしたような感じ。食事制限が無かったので察していたのだけれど、期待以上の物が出てきた。これは明日以降も楽しみで仕方がない。上手いか不味いか振り切ってくれると、食レポも筆が進んで助かる。  さっさと食事を済ませ、シャワーの時間まで寝転がっていると……廊下の方から、足音と声が聞こえてきた。 「だから言ったろ? 大したことないってさ」  若い男は声を弾ませ、誰かと話しているようだ。ここが病院だということも忘れているらしい。他の患者に迷惑だとか考えないのだろうか。 「今回の薬だって、ほとんど症状は出ないって。心配すんなよ、な?」  そうやって励ましながら、その声は部屋の前から離れていった。  俺と同じ大学生だろうか。知り合い同士で治験に来るなんて珍しいこともあるもんだ。  人付き合いが苦手な俺には関係ないことだが、そういう時間の潰し方もあったのかと、また勉強になった。これもノートに書いておこう。  シャワーの時間になったので、着替えと最低限のアメニティを持って、浴室へと向かう。  どこか迷い込んだように長廊下は静まり返っていた。病院ということも相まって、いかにもな雰囲気だ。  他の治験では看護師やらが世話しなくしていたものだけれど……やはり、この病院は勝手が違うらしい。とはいえ金さえ貰えれば何だっていいんだが。  そうこう考えている間に浴室へ着いてしまった。  浴室は三つに区切られており、それぞれカーテンで入り口を閉めている。上には大きくアルファベットのABCが並んでいた。俺に割り当てられたのはCだ。カーテンを開け、覗かれないように隙間なく閉める。検診衣と下着を脱いで洗濯カゴへ押し込み、さらに奥の中折れドアの先へ。  浴室の中には風呂椅子とシャワー、それと全身シャンプーがあった。本当に至れり尽くせりだ。わざわざ家から持ってこなくても良かったな。  蛇口を捻る寸前、隣の浴室から水音が聞こえた。他の治験参加者だろうか。気まずい。どうせ一期一会の共同生活なら、人付き合いなんて無意味だ。なんとか(はち)合わせしないように出なければ。  身体と髪を洗って、ついでに歯磨きも済ませる。用意されたバスタオルで拭いていると、隣からは何の音もしなくなっていた。  ほっと一安心してカーテンを開け――思わず表情筋が固まった。  検診衣を着た、同い年くらいの若い男が壁に寄りかかっている。  湿った茶髪を七三で分け、人懐っこそうな整った顔立ちだった。  目と目が合う。 「あ、どもです」 「……どうも」  オウム返しのような挨拶をして、俺は足早に個室へと戻った。特に引き留められることもない。  わけが分からない。休むなら個室の方が落ち着くだろうに。  あの男、湯冷めするのでも待っていたんだろうか。  個室に帰って、一日の出来事をノートに記録する。しばらくして夜の九時になり、強制的に消灯された。  田畑が近くにあったからか、眠るまで鈴虫の音色が耳に張り付いていた。
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