十日目

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十日目

 入院十日目の夜。  食事、採血、就寝のルーティーンが変わらず続いている。  これだけ長いこと入院生活をして気付いたのだが、ノートに書くネタも底をついてきた。食べ物のバリエーションと、あの男とニアミスして二言三言くらい会話した内容が関の山だ。何か薬の副作用でもあれば盛り上がるものの、これといった反応も無い。  求めていた退屈も、与えられ過ぎれば毒になる。これも汗水たらして働く人間にとってみれば、贅沢な悩みだろうな。 「そろそろシャワーの時間か」  身支度を整え、個室を出る。と、長廊下の先には男の姿があった。  いや……いい加減、避けるのも限界だろう。取って食われるわけでもないし、いつも通りの挨拶で終わらせればいいか。  男の後を追って浴室へと入る。陽気な男は初日のように、壁に背を預けていた。何か思い詰めているような、不可解な表情をしている。 「あ……お兄さん」 「どうも。いつになく元気が無いな。腹でも壊したか?」 「お兄さんこそ、今日は口数多いっすね」  確かに。らしくない。退屈の余り、おかしくなったようだ。  苛立ち交じりに鼻を鳴らして、俺はCと書かれた浴室のカーテンを開け―― 「ちょっと待ってもらっていいっすか」  男の制止に手が固まる。こんな風に呼び止められたのは初めてだった。 「何か」 「本当すんません。友達、来るの待ってもらっていいっすか?」 「なんで俺が」 「お兄さん。あいつと会ったこと、あります?」  考えるまでもない。俺が病院内で出会ったのは、この男と採血に訪れる女医だけだ。  けれど、それは基本的な生活は個室内で完結するからで。  それだけで、他の人が居ない証明にはならない。  男は、ぽつりぽつりと、うわ言のように呟きだした。 「俺、よく待合所とかで他の参加者と世間話するんすけど……なんか、お兄さんの話が出てこないなって。それで不安になったっていうか。毎日、薬も飲んでるし」 「言っとくが、俺は妄想の産物じゃないぞ」 「ですよね。でも、それじゃ納得できないっていうか」  気味の悪い話だ。ひょっとしたら、からかわれているのだろうか。煮え切らない態度の男にも腹が立つ。 「……わかった。付き合ってやるよ。あと十分だけな。ただし、疑いが晴れたら必要以上に絡まないでくれ」 「あざっす! マジ助かります!」  花が咲くように明るくなる男。演技にしては臭すぎる。単なる思い過ごしか。  男と同じように壁を背にして、俺は呆けながら浴室を見ていた。  アルファベットのABC。俺と男がBCを使っている以上、大方もう一人がAを使っている友達なのだろう。  しかし、こんな狭い空間で他の参加者と出くわさないことなんてあるんだろうか。  シャワーの時間帯は決まっている。どんなに早く使っても、姿くらいは見ても不思議じゃないはずだ。 「なあ……そういえば初日は、友達と会えたのか? ここで待ってただろ」  そう問いかけると、男は不審そうに首を(かし)げた。 「あれ? あの日は……ああ、お兄さんとで」  言いかけて、止まる。  それは変だ。なら俺が気付かないわけがない。  空気が凍る。(のど)が締まって、息苦しくなっていく。  俺より顔を青ざめる男。必死に何かを打ち消しているかのようだった。 「お兄さん。俺……おかしいんすかね?」  震えた声で、下手に笑って見せる男。七三分けした隙間から、汗が(にじ)んでいくのが(うかが)える。 「落ち着け。名前は。思い出せるか? 友達だけじゃない。誰か他の参加者でもいいから」 「え? え? あの、あのぉ……ちょっとマジ、何なんだよ、これぇ!」  異常だ。  治験どころの騒ぎじゃない。  いや、俺も例外じゃないのか。  毎日、欠かさず飲んでいた薬は、一体。  俺は何もかもから逃げるように、浴室から出て行った。最短で個室に戻り、荷物を全て鞄に詰める。  頭の中で警鐘が鳴り響く。  ここは『まとも』じゃない。これ以上は、耐えられない。  病院の長廊下を走る。急いで階段を駆け下りる。心臓が張り裂けそうだ。一階の非常口から、俺は外に出た。  暗闇の田園地帯は、(わず)かな明かりすらなく。  構わず俺は、治験という存在から逃げ出した。
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