外せない補助輪

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 僕という名の自転車には、空っぽのカゴが付いていて、そのカゴはいつも他人からの愛情を欲しがっている。  僕が生まれてすぐに、父親の浮気が原因で両親は離婚した。母はスーパーでパートをしながら、女手一つで僕を育ててくれた。  保育園にいるとき、僕のお迎えはいつも最後だった。少し前まで友達と取り合っていたおもちゃはすっかり魅力を失って、時計の音だけがコチッコチッと響いていたのを覚えている。 「すぐにお母さんが来るからね」  保育園の先生が何度も繰り返すその言葉。だけど、その言葉はいつも嘘だった。その頃から、空っぽのカゴは、愛情を欲しがるようになった。  小学生になると、テストでよい点を取れば、カゴに母が愛情を入れてくれ た。だから、僕は誰よりも勉強をがんばった。  僕という名の自転車は、全速力で走り続けた。スピードを出すと、みんなが注目して愛情をカゴに入れてくれる。僕は誰よりも速く、どんな困難な道も走り続けた。やがて、後ろに妻と二人の子供を乗せた。その上、親の介護や責任が重い仕事なども乗せた。後から思えば、もっと荷物を軽くするか、スピードを落とすべきだった。  ある日、自転車はギシギシといやな音を立てて動かなくなってしまった。夜、布団に入っても眠れない。朝が来ても、頭痛がひどくて起き上がることができない。仕事を休む日が続く。妻はさっさと自転車から降りて、子供を連れて去ってしまった。  病院に行くと、医者は「うつ病」と書いてあるラベルを自転車にペタンと貼った。 「飲むタイミングは、抗うつ薬は夕食後、睡眠薬は就寝前、抗不安薬は不安感が強くなったとき。抗うつ薬は、効果が出るまでに二週間以上かかるので、すぐに効果が出なくても、必ず飲むように。抗うつ薬の副作用を抑える薬も出しておくから、一緒に飲んでね」  医者は合計四種類の補助輪を自転車に付けてくれた。 「目が悪い人がメガネをかけて生活するように、うつ病の人は、薬を飲むことで普通に日常生活が送れるんだ。これからはずっと薬を飲み続けることになるけど、薬を自分の判断で飲むのをやめると、症状が悪化する場合があるので、必ず処方されたとおり飲むように」  ゆっくりと走りだした自転車は今までの遅れを取り戻そうとスピードを出し始めた。四種類の補助輪を付けたおかげで、とても調子がいい。すると間もなく別の女性が乗ってきた。僕はいい所を見せようと、さらにスピードを上げた。ところがある日、後ろからもっと速いバイクがやってきて、彼女をさらってしまった。急に軽くなってしまった自転車は、バランスを崩して転んでしまった。自転車は壊れて、また走れなくなってしまった。僕はまた病院に行った。 「この赤い薬は、とても強い薬だよ。睡眠薬と一緒に夜寝る前に飲むように。その副作用を抑える薬も一緒に出しておくね」  早速その晩、睡眠薬と赤い薬を飲んで寝た。  夢の中で、合計六種類の補助輪が付いた自転車は走っている。赤い補助輪のおかげで何だってできそうな気がしている。海を渡ることも、空を飛ぶことも。自転車はぐんぐんスピードを上げる。  ふと気がつくと、横に知らない自転車が走っている。その自転車は女性だった。補助輪は付いていない。その日から毎日、その自転車は夢の中に現れて、僕たちは、一緒に走った。一人で走るよりも二人で走るほうがずっと楽しい。彼女は僕のことを知りたいと言って、まず、自分のことをさらけ出して話してくれた。だから僕も過去のこと、薬のこと、すべて話して彼女に聞いてもらった。僕が自分のことを誰かに話したのは初めてだった。僕の空っぽのカゴは彼女の愛情で満たされた。だけど時々彼女は僕にブレーキをかけろと説教する。そして、とうとう一番触れて欲しくないこと、補助輪を外せと言ってきた。 「補助輪にいつまでも頼っていたら、外せないどころか、ますます強いものが欲しくなるもの。病院を変えてみたら、いい方法が見つかるかもしれないわ。前向きに考えないのなら、私はもうあなたと一緒に走るのはやめるわ。」  わかっている。自分でもわかっていることを人から言われるのは嫌なものだ。 「僕は僕で考えがあるから、その話はしないでほしい。」  次の夜、睡眠薬と赤い薬を飲まなかった。だけど、布団に入って目をつぶってみると、フラッシュバックが起きた。辞めてしまった仕事のこと。去っていった妻と二人の子供。あの小さかった子供たちは、大きくなっただろう。僕の中では永遠に時計の針が止まっている。僕は最低の父親だ。こんな父親をどうか許しておくれ。本当にすまない。もう二度と会えないのか。僕は何をやってもうまくいかない。いろんな思考がグルグル、グルグル……。眠れない。早く眠りの世界に落ちていきたい。 「もう無理だ」  睡眠薬と赤い薬を飲んで、もう一度横になると、静かな眠りの世界に入っていった。  夢の中に彼女が現れたので、僕は言った。 「君とはいつでも別れられるけど、補助輪は長い間、僕の一部になっているので、外すことはできない」  それを聞くと、彼女は黙ってすっと消えてしまった。  次の夜も彼女は現れなかった。そしてその次の夜も……。  僕はあせった。まさか彼女が現れないなんて考えたことはなかった。彼女はこれからも毎晩現れて一緒に走ってくれると思い込んでいた。彼女と夢の中で会うことは、もう当たり前のことになっているのだ。 「先生、僕はどうしても彼女に会いたいのです。薬を減らしたら、彼女はまた現れると思うのです。だから薬を減らしてください」  医者のメガネがキラリと光った。 「治験は成功したようだ。実はね、赤い薬の効果を調べさせてもらってたんだよ。学会で発表するデータが必要だからね。赤い薬を飲むと一番望んでいるものが夢の中に現れるんだ。夢の中で望みが叶うから精神が安定する。だから彼女は、赤い薬が作り出した夢なんだよ」  彼女は赤い薬が作り出した夢だとしても、僕にとっては、そんなことはどうでもよかった。とにかく僕は、彼女に会えることだけしか興味がなかった。 「だけどどうして彼女は現れなくなってしまったんでしょうか?」 「彼女が愛情をたくさんくれたから、君は愛情をもう望まなくなったんだ。君の望みは、きっと別のものに変わってしまったんだろう」 「そんな……。今は彼女に会いたい気持ちでいっぱいです。どうやったら彼女に会えますか?」 「赤い薬の治験は終了したから、もう彼女には会えないよ」 「先生、お願いです。もう一度、赤い薬をください」 「なるほどね。赤い薬には依存性が強いということが、これではっきりしたよ。今回は青い薬を出しておくよ。この薬は赤い薬と逆で、一番望まないものが夢の中に現れるんだ。目が覚めたとき、夢が本当ではないからホッとして、精神が安定する。現実のほうがどれだけ幸せかということを実感できるんだ。副作用を抑える薬も忘れずに飲んでね」  青い薬を飲むのは怖かったが、どうせ夢なのだ。そのあと精神が安定するんだから大丈夫だろうと思って、飲んでみた。  夢の中で、青い補助輪を付けた自転車は走りだした。  隣に懐かしい気配を感じた。彼女だった。彼女も僕と同じように六種類の補助輪を付けていた。 「どうして来てくれなかったんだ?」と僕が聞くと、その返事はなくて、「ちょっと、止まろう」と彼女が言った。  僕たちが止まると、彼女は自分の六種類の補助輪をすべて外して、僕の自転車に取り付けた。 「あなたは補助輪が大好きだから、私の分もあげるわ」  補助輪がなくなって軽くなった彼女は、さっそうと走っていってしまった。僕には十二種類の補助輪が付いているので、重くて、彼女にとても追いつけなかった。  僕の望みがこれで明らかになった。青い薬を飲んで現れたことは、望まないことなのだ。僕の望みは、補助輪を外すこと、つまり、薬に頼らないことだったのだ。自分でもこのまま薬を飲み続けていいのか不安だった。だけど、病院を変えるなんてことは僕にはできない。僕はいつも他人の顔色をうかがって生きてきた。僕は、他人からいい人だと思われたい。病院を変えると言って、医者の機嫌を損なうことなんてできない。  僕はすぐに病院に行った。昨日病院に行ったばかりだが、これから一か月間、青い薬を飲んでこんな夢を見ると思うと耐えられなかったのだ。処方された薬を勝手にやめると症状が悪化すると言われたので、医者の口から青い薬をやめていいと言ってもらいたい。  その日は雨だった。診察のときに、濡れた折りたたみガサを足元に置いた。 「先生、青い薬のせいで、ひどい夢を見ました」  僕は怒りながら、現れた夢を詳しく医者に話した。話が終わると、医者はチラッと壁掛け時計を見ると、カルテをパタンと閉じた。 「今回は青い薬は飲まなくてもいいですが、その他の薬は必ず飲んでください。では一か月後に来てください」  僕は出口のほうに向かって歩き出した。ドアを開けようとしたとき、折りたたみガサを忘れたことに気が付いた。引き返す途中で、僕の足は止まってしまった。なぜなら、医者が看護師に話している声が聞こえてきたからだ。 「あの患者は攻撃性と衝動性が強いね。次回はそれらを抑える薬を追加しておこう」                                  (完)                      
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