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いやあ、今じゃもう俺もこんなおっさんだけどさ、昔はよく女の子に間違えられるくらいの可愛い子どもだったんだよ。いやいやいや本当だから。それで一回本気で危ない目にも遭ってるから。小一のとき。まあ間一髪無事だったんだけど。
昔はさ、今より色々ゆるかっただろ? 今じゃ遊びに行くって言ったら、必ず親がついてって見てなきゃいけない。塾の行き帰りだって子ども一人じゃ歩かせられない。変な奴が増えたっていうけどさ、俺らが子どものときだって変なおじさんおばさんの一人や二人や三人いたろ? 俺のとこで有名だったのは『おくすりおじさん』って呼ばれてたんだけどさ。
今考えると、おじさんと呼ぶにはかなり若い男だったと思う。もしかしたら、二十代前半くらいだったかもしれない、そんなしっかり顔覚えてるわけじゃないけど。でも子どもからしたら、二十代も五十代も大人なんてみんなおじさんだからさ。
おくすりおじさんは、いつも夕方五時になると公園にやってきて、そこにいる子どもに声をかけるんだ、「お薬の時間だよ」って。そんで、薬袋、医者行くともらう薬を入れる紙袋あるじゃん、内服薬一回一錠とか書かれたやつ、そこから『お薬』を取り出して、子どもに配るんだ、「ちゃんと飲むんだよ、よくなるからね」って言いながら。
今だったら完全に不審者、っていうか当時だって完全に不審者だよ。子どもながらに「ちょっとやばいな」くらいの感覚はあったよ。ただ、その渡してくるお薬っていうのがさ、お菓子なんだよ、ラムネ菓子。青とか赤とかの透明なビニールに個包装されたやつ。気持ち悪いって捨てる奴もいたけどさ、俺は喜んで食ってたなあ。いや、だってただのお菓子だし? お菓子に罪はないじゃん?
まあそんな感じで、暴力を振るわれるとか、奇声を上げて追いかけられるとかそういう、実害みたいなのは何にもなかったからかな、にこにこしながらお菓子配ってるだけと言えばそんだけで、ちょっと見逃されてたとこはあったんだよな。けどやっぱり、誰かが親に喋ったんだろうな、知らないおじさんにお菓子もらったーとか、たぶんそんなだったんだと思う。親からすれば、『見知らぬ大人から物をもらっている』なんて危険だって思うよな、何が入っているか分かったもんじゃないって。まあ正常な判断だわ。
学校で全校集会が開かれて、『知らない人に声をかけられても付いていってはいけません』『物をもらってはいけません』って話がされた時から、ぴたりと、おくすりおじさんは公園に現れなくなった。俺は正直、お菓子がもらえなくなって残念くらいにしか思ってなかったけど。
俺、子どものころ、ピアノ習っててさ。親が色々やらせたがったんだよ、英会話教室にも通わされてたし。全然続かなかったけどな。で、グランドピアノがある先生の家まで、歩いて一人で通ってたんだよ。子どもの足で十分、十五分のとこだったから、まさかそんなご近所で危ない目もないってとこだったんだろう。ところが、なんだな。
レッスンが終わって、一人で帰ってるときだった。夜の七時くらいで、外はもう暗い時間だった。すうっと後ろから車が走ってきて、俺の真横で止まった。運転席の窓が開いて、「すみません」って男の声がした。暗くて、顔はよく見えなかった。「君、このあたりの子かな。おじさん、道に迷っちゃってね、こっちに地図があるから、見て教えてくれないかな」そいつはそんな風に声をかけてきた。
大人なら、それがどれだけおかしなことか分かるよ。そんな時間に、小さな子どもに道を尋ねるなんて、こっちに地図がっていうのは、車に乗せようとしてたんだな。でも、当時の俺は可愛い良い子だったからさ、困っている人は助けてあげなきゃっていう使命感に燃えてたから、どれどれって不用意に近付いた。そのとき、後ろから両肩を掴まれてぐいと引っ張られた。びっくりして振り返ったら、そこにはおくすりおじさんが立っていて、ものすごい形相で車の中の男を睨みつけながら「僕の娘に何のご用ですか」って言ったんだ。そのときのぞっとするくらい冷たい声は今でも忘れられないなあ。
男は慌てて、もう大丈夫ですとか何とか言って走り去っていったんだけどさ、おくすりおじさんはさっとケータイを取り出して警察に通報してくれて、しかも車のナンバーまでばっちり覚えててさ、男はそのあとすぐ捕まったらしいんだよ。
おくすりおじさんは膝をついて、子どもの俺と目線を合わせてまっすぐ見つめながら「大丈夫?」って心配してくれた。俺はそのとき自分が危なかったことなんてまったく理解してなかったけど、とりあえずうんうん頷いてた。おじさんはほっとした顔をして、「それじゃあ、お薬飲もうか」って、いつものお薬をくれた。それからずっと手に握っててくれた。
うん、良い人だよ、おくすりおじさんは。ここまでなら。
そのあと警察がやってきて、その場で事情聴取を受けた。って言っても、おくすりおじさんが説明するのを受けて、警察が俺に確認するって形で、俺はまたしてもうんうん頷いているだけだったけどね。俺の親もすぐに来てくれて、じゃあ帰ろうかって段になったとき、「じゃあ帰ろうか」って、おくすりおじさんが俺の手を引いて連れていこうとしたんだよ。
俺の親が慌ててそれを止めて、警察も最初は何がどうなったって感じで混乱してたんだけど、俺が証言したらまあ一発で、「ぼくのお父さんとお母さんはこの人です」って主張したら、おくすりおじさんは驚いた顔をした。それから小さな声で「ぼく?」って呟くのが聞こえて、するすると手が解かれた。ぼんやりした顔で、突然迷子になったことに気付いたみたいに、何度も首を捻ってた。
その後おくすりおじさんは警察に連れていかれて、その後どうなったかは知らない。中学に上がったとき、親が教えてくれたことには、おくすりおじさんには娘がいて、その子は小さいころに病気で亡くなっていて、それ以来、おくすりおじさんはおくすりおじさんになったらしい。
それを聞いてさ、なんか、やるせないような気持ちになってさ。今どうしてるんだろうな……。
ま、これが、俺が昔は超美少女だったっていうお話なんだけど。まあまあ、お前にもお薬をあげよう。ん? ふふん、ただのお菓子だよ。
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