忘れる薬

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忘れる薬

「全てを忘れられるのに、何故飲まないのだ!!」 製薬会社の会長である尾上豊一(おがみとよかず)は、俺に叫ぶ。 「何故だ!楠木君、君の人生は幸せじゃなかったはずだ。今まで、散々な人生だった。常日頃から、同僚達に愚痴っていたじゃないか!君は、わが社にとって素晴らしい治験者なんだ!ほら、飲みなさい」 「いりません」 俺の言葉に尾上会長は、顔を真っ赤に染めて叫ぶ。 「痛みも苦しみも悲しみも惨めな気持ちも何もかも消えるんだ!!さっさと飲みなさい。これを飲み全てを忘れた君に……。わが社から、一生生活に困らないお金が入るんだよ。君の不必要な感情の記憶。それを綺麗に消す事が出きるだけでわが社はいいと言ってるんだ。楠木君、迷う事はないだろ?早く飲みなさい」 尾上製薬で、秘密裏に研究が進められてきた。感情消去薬。 負の感情を全て消せるという薬だ。 この画期的な薬に全世界が飛び付いたのはいうまでもない。 何故なら、恨みや悲しみや憎しみが消えれば平和な世の中をもたらせてくれるからだ。 殺人だって、争いだって起きない。 ただ、幸せな人が増える。 どう考えたっていい事だ! 世の中にとっては……。 ただ、動物実験は成功したけれど人での実験は、まだ試されていなかった。 そこで、俺が尾上製薬の社員から選ばれた。 負の感情を消した後で、俺に残るのは100億のビックマネーだ。 その金で、一生涯遊んでくらしてやる!今まで、俺を馬鹿にしてきた奴等を見下してやる。 そう思って、ここに来た。 だけど……。 いざ、治験の開始を告げられた瞬間。 俺は、ずっと拒否を続けている。 「楠木君。わかりました。やりますと言ったじゃないか!どうして、今になって嫌だと言うんだ!おかしいだろう?」 尾上会長は、怒りに震えている。 「楠木君、ここでやめればまた君は同じ人生に戻るんだ!何を躊躇う事があるんだ。100億のビックマネーが手に入ると喜んでいたじゃないか!それだけじゃない。なんなら、豪邸も車もこの会社の株だってつけても構わない。人での治験が終わらなければならないんだよ!楠木君、早く飲んでくれ」 俺は、また首を横に振る。 「楠木君、君の人生に何の価値があるんだ!!!!!」 テーブルをドンッと叩いて、尾上会長は叫んだ。 「生きてるだけで価値があるなどと綺麗事をぬかすんじゃないぞ!だいたい、虫けらみたいなお前に生きてる価値なんてないんだ。ここに入社して、君は何の役にたった?20年努めていながら、薬の開発が一つも出来ていないのはお前だけだぞ!わが社にたいして、利益をもたらさない癖に給料だけもらって帰りやがって!この給料泥棒が!お前みたいな糞みたいな人間がいるから、世の中は不幸でしかないんだ!頑張っている人間の足を引っ張りやがって」 どうせ記憶を消すからいいだろうって気持ちで、尾上会長は俺を罵る。 俺にだってわかってるよ! この人生が糞だって事くらい。 俺は、言葉を話すのが遅かった。小さな頃のあだ名はノロマちゃん。 両親や親戚にも、そう呼ばれていた。 「お前は、ダメな子だ」 「お前は、出来が悪い」 「こんな事も出来ないのか」 保育園に入ってからは、担任や両親から言われ続けていた。 小学生に入るとあだ名は、グズに変わり、両親は新しく産まれた弟を可愛がった。 そして、小学4年の夏休み。 弟は、事故で亡くなってしまった。 「お前が死ねばよかったのに」 「何で、お前じゃないんだ」 「命があるのが無駄だ」 俺は両親から、そう言われ続けていた。 そして、中学にあがってすぐ両親は事故で亡くなった。 両親が死んだ事を1ミリも悲しいと思えなかった俺は、祖父母から【悪魔】と呼ばれ始めた。 そんな俺の唯一の楽しみが実験。 中学の時の理科の先生は、俺を初めて認めてくれた人。 「楠木は、いい科学者になれるかも知れないな!」 先生の言葉を信じて、俺は研究員を目指したんだ。 誰かの命を救いたい。 そんな気持ちで、製薬会社に入った。 だけど、ノロマな俺は、この20年何も産み出せなかった。 いや、俺の人生にいい事なんてほとんどなかった。 「楠木君、ようやく飲む気になったかね。君の人生は何もいい事はなかっただろう?今だって、親戚連中や同期や後輩にも馬鹿にされていると話してただろう?ほら、飲みなさい。君の今までの苦しく悲しい人生の全てがなくなるんだ。明日から、君は素晴らしい人生になるんだよ。全て、忘れられるんだ。楠木君……飲みなさい」 尾上会長は、俺に20錠の薬を渡す。 これで、俺の人生は生まれ変わる。 俺は、幸せな人生になるんだ。 バラバラバラ……。 「楠木!!!何をしてんだ」 俺は、薬を床に飲ませてやった。 「お前、自分が何をしたかわかってるのか?」 「100億だろうが200億だろうが必要ない」 「ふざけるのもいい加減にしろ」 「尾上会長、俺はね。確かに不幸でどうしようもない人生でしたよ!いろんな人に馬鹿にされ罵られ、いつだって苦しくて痛くて悲しかった」 「だったら、いいじゃないか!いらないだろ!そんな人生」 俺は、尾上会長を睨み付ける。 「いらないよ。いらないって言いたいよ。だけど、負の感情を失くすって事は……。あの時の痛みや悲しみもなくなるんだよ」 「あの時?あの時ってなんだね」 「クロが死んだ悲しみも……。初めて恋をした痛みも……。失恋した苦しみもだよ」 「そんなものなくなっていいだろ?100億の価値なんてないだろ?楠木君、考え直しなさい」 尾上会長は、また俺に薬を握りしめさせてくる。 「100億なんかじゃ足りないですよ!クロと過ごした日々も……。彼女を好きだった日々も……。報われたのにうまくいったのに、苦しくて悲しくて切なくて仕方なかったあの日々も……。100億なんかもらったって足りませんよ」 「楠木君、どうかしてるよ。負の感情の記憶をなくしたっていい思い出があるじゃないか!それだけで充分じゃないか!考え直しなさい。楠木君」 俺は、また床に薬を飲ませる。 「楠木!!いい加減にしろーー」 「いいか、よく聞け!お金で解決してきたあんたには、俺みたいな底辺の人間の気持ちなんかわからないかもしれないし。俺は、生きるに値しないのかもしれない。だけどな、俺が今まで味わってきた負の感情はな。悪い痛みや苦しみばかりじゃなかったんだよ!負の感情の全部が悪だなんて、極端すぎるんだよ。それにな、俺はこの感情を抱えながら今まで生きてきたんだよ。だから、この感情がなくなったら俺じゃないんだよ!俺じゃない俺になって、100億もらったって何も嬉しくないんだよ!わかってんのか、クソジジイ」 「クソジジイ……だと……。楠木、お前はクビだーー」 「言われなくても、こんな会社辞めてやるよ」 俺は、立ち上がり走った。 走って…… 走って…… 走って…… 「はぁ、はぁ、はぁ」 【ニャー】 「クロマル、ただいま」 【ニャー、ニャー】 クロが残した子供。 「お帰りなさい。亮悟(りょうご) 」 「ただいま、花江(はなえ)」 クロが連れてきてくれた彼女。 「お腹すいた」 「お金ないから、もやし炒めだよ。今日ね、半額でハムが買えたからハム入り」 「うわーー。ご馳走だな!手洗ってくる」 「うん。あのさ、亮悟。明日には、お金がたんまり入るよって言ってなかった?」 「あーー。あれ、なくなったんだよ」 俺は、洗面所に手を洗いに行く。 オンボロアパート、家賃は二万。 ペット可、物件なのは助かってる。 手を洗ってリビングに戻ると花江がご飯を用意してくれていた。 「俺、会社辞める事になった」 「そっか……」 「45歳で再就職は厳しいからアルバイトかもな」 「いいんじゃない?別に……」 「貧乏のままだし、結婚とかも無理だよ。花江は、まだ35だろ?新しい人に行った方がいいんじゃ……」 俺は、もやし炒めを見つめながら花江に話す。 「私は、このままでいいよ。結婚とか考えてないよ。亮悟とクロマルと居れればそれでいい」 「花江……」 「お金がたんまり入って、亮悟が亮悟じゃなくなったら嫌じゃない」 「え?」 「私は、亮悟の優しい所が大好きだよ。たくさん、人に傷つけられて痛い思いも悲しい思いもしてきたから優しくなれたんだと思う。だから、亮悟。今のまま、変わらないでね」 俺は、花江の言葉に泣き出してしまった。 「何々、どうしたの?」 「いや、何でもない」 俺は、100億と引き換えに全部失くすつもりだった。 あの薬を飲んでいたら、大好きな花江に嫌われるような人間になって帰ってきてただろう。 花江と出会って、付き合って、すれ違いから喧嘩をして、苦しくて泣いて……。 その痛みも悲しみも、全部失くそうとしてた。 俺、馬鹿だよな……。 金なんかじゃ買えないよな。 この痛みも悲しみも……。 全部…… 全部…… 俺だよ。 俺の一部だよ。 「亮悟、何で泣いてるの?」 「ハムが入ってるから……」 「何それ……。また、半額であったら入れてあげるね。これも食べていいよ」 幸せな時間が流れていく。 これで、よかったんだ。 あの薬を飲まなくてよかったんだ。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ あれから、一年が経った。 尾上製薬の新しい薬が発表された。 【フクナ】という名前らしい。 【失くそう悲しみも痛みも苦しみも……】CMで俳優さんがそう話していた。 本当に、これを飲めば人生が変わるのだろうか? 俺が飲まされそうになった量よりは、明らかに少ない一回分なのがわかった。 誰かが飲んだ結果、そうなったんだろう……。 俺は、家に帰る。 頼まれていた絆創膏を救急箱にしまう。 「これ……」 何故か【フクナ】が入っていた。 まさか!!花江が……? 「亮悟、帰ってたんだ」 「花江、これ?」 「ああ、それね。何か、街で配っててもらったの。試供品」 「飲んだのか?」 俺の言葉に花江は、笑って瓶を取り上げてる。 「飲むわけないじゃん。痛みも悲しみも苦しみも……。全部、私の一部だよ!!」 「失くしたくないって事か?」 「失くしたくないよ。いつかは、ほら、歳を取って失くすかもしれないけどね……」 「じゃあ、何でこれ?」 俺の言葉に花江は瓶を握らせてきた。 「いつかの亮悟に必要になるかな?って思ったから……」 「いつかの俺?」 「うん。だって、45歳で再就職して働きだしたら、上司はみんな年下だよ!やりづらいとか文句言われるかもでしょ?そんな時に、感じた痛みを消せるかなって……」 俺は、花江の言葉に笑う。 「痛みも俺の一部だから、必要ないよ」 花江は、俺の顔を見て「そうだよね」と言ってから瓶を取った。 「どうするの?」 「明日、ごみ日だから捨てとく」 花江は【フクナ】を持ってキッチンへ行く。 誰かに必要な薬かもしれない。 だけど、今の俺には必要ない薬だ。 【さようなら、尾上製薬。さようなら、【フクナ】
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