灯る精

5/9
前へ
/9ページ
次へ
 夜の清涼な空気はどこから生まれるのやら。  昼間の熱は冷まされ、ひんやりした空気が上品な微笑みのように周囲を満たしていた。  海原は月明りに細く照らされながら、低い階段状になっては崩れ、新しい段を作るを繰り返していた。その階段を上り下りする者はなく、ただ階段そのものが動いて遠くからの流木や魚の死骸などを浜へと送り届けてくるのであった。  海辺の苫屋は黒い小さな隆起となって眠っている。  その内側で眠る村人たちに思いをはせ、どうか暗い夜を月ほど頼りにはならないが照らせますようにと、サコは灯を掲げた。  家の開け放した戸口で高くあげた両手をそっと離す。  火のように灯る玉は落ちることなく、戸口のすぐ上で留まった。何かで固定されているかのように対空し続ける。  灯を浮かばせた瞬間、サコの家は生まれ変わった。  古く黒ずんだ木の壁がほんのりと橙色を照り返し、サコたちの影を濃く映す。屋根に葺いた苫も、今にも火をもらい受けて一本一本が松明のようになるのではないかというほど、炎色に染まった。苫と苫の隙間にできた影すらも温かく見える。  昼間はサコの懐や手の中でしんとしていた灯が、夜には真の姿を現し、かまどの火に劣らぬ明かりを一定に保ち続けている。  「きれいだな」  父が言う。顔そのものが一つの蚊に刺されのような赤い顔も、今は白を帯びた光で包まれている。指先で灯をつついたが、それはびくともせず滞空し続けている。  母の腕の中では妹が眠っている。昼間はあんなに気にしていたのに、今まさに灯が本領を発揮しているときになって、その光に包まれながら目を閉じてすやすや寝入っているのが少しおかしくて、サコは笑った。  振り向くと丘からの景色はいつもより暗く感じた。眼球の裏ではまだ炎の玉が浮かんでいる。そのまま瞳と合体し、取れないのではないかと思ったが、それも悪くないとも思った。  海は依然と月光の道を作っては波打っているし、眼下の家々はひっそりと影の底に沈んでいた。こんなにも明るくサコたちを抱く灯の明かりも、浜辺には到底届かない。夜に多くを照らし得るのは月だけだ。  それでもサコにとっては灯は何よりも明るく感じた。月よりも、太陽よりも、サコの体の隅々を照らし出し、見えなかった闇を掃き出していく。  恋人ができた気分だ。唐突に感じた。  いつか村の誰かと、そうでなくても対岸の村の誰かと結婚することになるだろうとわかってはいた。村で育った娘の多くがその道を辿っている。サコもいずれその足跡に自身の草履の裏を合わせる。期待も失望もない、自然な将来だと認識していた。ただ、そうなるだろうと思っているだけで、具体的な姿形を思い浮かべたことはなかったし、しようとしてもできなかった。  それが今、生涯寄り添う相手を見つけ、その肩に身を寄せるような安心を、サコは確かに味わっていた。自分が死ぬまで、傍には灯が浮かび続けるだろう、そう思うことに何の違和感もなかった。  灯る玉に欲情しているのではない。恋情を抱いているのでも決してない。ただ、愛しさだけを感じていた。  その胸の内を知るはずがないのに、母は唐突に「サコの嫁入り道具だね」と灯を見上げながら言った。無論、サコも家を出ていくときは必ず灯を持って行くと、わざわざ誓うまでもなく無意識に決めていた。  「もう寝よう」  父に促され、サコは最後に灯へ手を伸ばした。やはり何も感触がない。だが灯はサコの手を通じ、血管を通り、骨を染め上げ、肩を通過し、心臓に至り、終いには全身へと行き渡った。戸口に浮かぶ灯がサコの体内に火を分けてくれた気がして、サコの内臓全てが喝采するように膨張した。  家の奥で母と妹を挟むようにして横になり、戸口に背を向けて目を閉じる。外を見ればサコの一生涯の相棒が浮かんでいるのがわかるはずだが、寝るには眩しすぎるし、第一興奮を冷まさなければ眠れない。  胸の前で拳を握り合わせ、口元に笑みを浮かべながら、サコはどこか明るいようなまぶたの底の眠りへと落ちていった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加