灯る精

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 「熱くないんだな」  ノウタが灯に手を伸ばしながら言った。彼の砂にまみれた膝小僧から流れているものを、橙色の明かりが照らしている。  「痛くない?」  「痛いよ」  サコが差し出した布で膝を拭い、眩しそうに目を細める少年は、はにかむように笑ってみせた。  ノウタがサコの家に行くのは、サコが灯を手に入れてからは初めてだった。  今までは丘に穿った細い道を慎重な足運びで上ってきていた。つま先と踵に触れるものだけを頼りに暗闇の中を進んでいくのはノウタの得意とするところだった。  しかし、今夜は目指す先に不思議な光が待っていた。  それは、友達に会うために夜の細い上り坂を一人歩く少年の目標となり、温かく手を差し伸べてくれた。謎の光に、おのずと少年の目が釘付けになる。景色が塗りつぶされた世界で、ただ一つ鮮明に浮かぶそれを最大の助けとするのは宿命も同然だった。  それと入れ替わるようにノウタの足元がおろそかになり、夜の海とさして変わらない黒い地面に転がる石につまづいて、気が付くと視界が低くなっていて土の匂いがした。  通い慣れていたはずの道に体を投げ出す羽目になったノウタは、友達に勘づかれまいとしたいところだったが、彼女の家の戸口に立てばそれも虚しく、明かりは膝から流れる血を炙るように照らし出した。  「それがなければ転ばなかったんだけどな」  「ノウタがうっかりしてただけでしょ」  期待していたのと全く違う友達の反応に、サコは不満だった。しかし、灯が原因で転んだのは事実なので、それ以上は何も言わなかった。  二人はしばらくの間、黙って灯を見上げていた。  鮮明に照らし出された苫の隙間や壁の汚れ、明かりの届かない箇所との滲んだ境目、手を伸ばせば分身のように現れる手首の影。それらを見るとき、少年と少女は自然と静かになる。  「きれいでしょ」  ノウタはしばらく考えていた。サコが彼の顔を見てから、やっと答えが返ってきた。  「ちょっと、怖いかも」  「怖い?」  「何となく」  その間もノウタは灯を見上げている。瞳が燃えていた。灯は微動だにしないが、彼の眼球は動くので、そのたびに瞳の中の火が揺らぐ。  「これ、何なんだろうな。どうして燃えてないのに燃えてるみたいに光ってるんだ? どうして浮かんでるんだよ……なあ、サコ、不思議に思わないのか」  「不思議だよ。私もどうしてこうなってるのかわからないもの」  「それなら、どうしてそんなものを戸口に浮かばせていられるんだ? 怖くないのか」  「怖くないよ」  サコは少し苛立ちを覚えた。近くで見せてあげようとしたのに、その感想はなんだ。いや、彼の意見はもっともだ。ふつう、得体の知れないものを見たら恐怖する。そんなものを大切にしている人をおかしいのではないかと疑う。彼の言動は至極まっとうなのだ。  わかっているが、サコはそれでも残念な気持ちだった。私はただ、夜を照らしてくれる存在の心強さを、美しさを共有したかっただけだ。それをわかってもらえず正しい言葉だけが返ってくるのが悲しかった。ノウタは悪くないのに、どうしても勝手に期待して勝手に失望してしまう。 「私たちは灯について知らないけど、大人たちは知ってるみたいでしょ。とてもありがたいものらしいし。だから平気、なはず」  家の後ろの木々から梟の鳴き声がした。長く尾を引き、澄んだ空気を渡って遠くまで響いていく。  梟の声に気付くと、他にも風の音や虫の声があちこちでしていたことに気付く。夜に満ちる声が二人を包囲し、じわじわと追い詰めてくるようだ。  風の音がすれば、風を感じる。頬を撫で、髪の間を抜けていくひんやりとした感触を気持ちいいと思ったとき、ふいに上の方で何かが動く気配がした。同時に影も左右に小さく震えた。  灯が揺らめいている。  風に優しく煽られるように、左、右へと傾き、上へ伸び、縮む。  ノウタが来る前もわずかに動いていた。  サコはノウタに視線を移した。彼もこれを見ているはずだ。  ノウタは黙って灯を見上げていた。彼は灯が普段ピクリとも動かないことを知らない。風を受ければ合わせて揺れる。何もおかしなことではないと思っているはずだ。  少年の瞳の中では灯が同じようにちらちら動いていた。  「あっ」  少年が目を押さえる。背中をかがめ、うずくまる。  「熱い」  サコは一瞬、固まったまま友達を見下ろしていたが、次の瞬間には彼の手をつかんでいた。  「どうしたの、ノウタ。見せて!」  なお目を強く庇うノウタの両手を外し、サコは彼の目を覗いた。話すときはいつもそこから相手の心へと入り込む。その入り口に何か尖ったごみが刺さったのかと、そう思った。  サコは再び固まった。体が石になる音が体内で響いた。  サコの握っているノウタの両手が真っ赤に腫れている。日焼けの比ではない、火に直接触れたときにできる火傷だ。  ノウタはまだ目を閉じている。まぶたがのたうつように震える。  痙攣するたびに覗く瞳は、なおも灯の光を反射していた。  まぶたはほとんど閉じているのに、灯の火はどうしてか少年の目の中にあり続ける。  サコはやっと理解した。  ノウタの瞳が燃えているのだ。  ノウタの両目の中で、火は伸び縮みしている。眼球全体が燃えているのではない。瞳だけが燃えている。小さな火が、燃え尽きることなく、燃えている。  水を(かめ)ごと持ってきて、彼に全てかけてやる。  瞬く間にずぶ濡れになった少年は、まだ「熱い、熱い」と繰り返している。  妹の泣く声がした。母と父が起き出してくる。  少年を取り囲む三人の影を戸口の明かりが見下ろし、赤ん坊の声が遠くまで響いた。
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