ティーカップ・ソール家の人々

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ティーカップ・ソール家の人々               森川 めだか マクマードファミリー  マクマードはテーブルから立ち昇るコーヒーの湯気を見ていた。 ズーズーはその前で腕組みをしたまま何か考え込んでいる。 マクマードは腹這いになって本を読んでいた。 家の側窓の横には細い道があるのだが今は誰の音もしない。 この部屋の中もまるで埃の音しかしない。 「今日、変な夢を見たよ」マクマードはズーズーを見ないで口を開いた。 「何か、小説を読んでてさ、その主人公がね、三匹の猫を飼ってて、なぜか覚えてないけど他の人の猫も世話することになったのさ」 ズーズーは黙っている。 「そんで、・・ラストになってちっともその三匹の猫が出てこないことに僕が気が付くんだ。僕はそれを人に聞くんだけど、その人は三匹の猫を始末したって言うんだな。その動機がね、主人公が他の人の猫が可愛かったからっていうんだ」 「変な夢ね」一言だけ言って、ズーズーは席を立った。 「父さんが殺されたからそんな夢見たんじゃない?」 マクマードは青く首を振る。 「僕は体の中に父さんの血が流れてるかと思うとかきむしりたくなるんだ」 「そんな漫画ばっかり読んでたら気が狂うわよ」 ズーズーはそう言いながらも何か他のことを考えているようだ。 「男って嫌ね」 火かき棒で灰をつつきながら言う。背を向けた、形のよい丸いお尻をマクマードは見る。 インテリアで銅の天秤が飾ってある。どちらも揺れない。 この空気は水道を開けたばかりの茶色い水に似ている。 元気のない方がズーズーは却って健康的に見える。 ズーズーは僕の見ている前では煙草を吸わないんだ。 「ねえ、ズーズー」 「ん?」 「才能ってあるだろ。僕、別に持ってないけどさ」 「うん」 「芸術でもスポーツでも何でも、一位になる人は決まってるじゃないか。それなのに、ああ、この人にはかなわないなあって分かって、どうしてやめないのかな」 ズーズーの顔を見てもう一度言った。 「どうして一位になれないのにやめないのかなあ」 「人はやめたくてもやめられないのよ。自分の幸せのためにね」 ズーズーの言う「やめられない時」をまだマクマードは感じたことがなかった。 ズーズーはまた火かき棒で灰をひとしきり落とした。 「一番父さんに似たのはハッサンだったかも知れないわね」 ハッサンというのは父さんを殺したこの家のお手伝いだった男だ。 「お金持ちだったからだろ」 「私はお金持ちじゃなくたって構わなかったわよ」 ズーズーは重そうなお尻を持ち上げて立った。 「頭でっかちね、マクマード」ちらりとマクマードを見た。 「父さんはズーズーのことが可愛かったんだよ」 マクマードは下に敷いていた本を持ってゴロリと仰向けになった。 「あーあ、チャンドラーもいたらなあ」 「本当ならハッサンが兄さんになるところよ」 遠くからズーズーの声が聞こえる。キッチンにいるようだ。カタカタ、食器が鳴る音も聞こえる。 鳥や虫の声が聞こえていた頃が懐かしい。 「世界中の生き物の声が聞こえると孤独もなくなるのにね」 「孤独な人もね」ズーズーが中指と人差し指の間にコップを二つ持って戻ってきた。 ズーズーはコーヒーの置いてあるテーブルのさっきの席に着くとコップを置いてマクマードを見た。 マクマードはまた俯けになり自分の腕に顎を埋めた。 「人は性交をすると遺伝子が混ざり合うんだってね」 「とっくの昔にセックスなんてしてなかったでしょ」 ズーズーはコップを揺らしてマクマードを目で呼んだ。 マクマードが、よいしょ、と立ち席に着くと、片方にはビール、マクマードのにはジュースを入れた。 「どうして僕のも酒じゃないんだ」文句を言いながらマクマードは押し抱く。 「あんたいくつよ。15歳まで子供だって薬事法で決められてるのよ」ズーズーは鼻で笑って、ビールをうまそうに一口、二口飲んだ。コップには泡ともう半分ほど残った。 「マクマード、あなたはちゃんとやるのよ。姉さんがいなくなっても」 マクマードはすぐに飲み終えてまたすぐに床に寝た。泳ぐようにお尻をズーズーに向けている。 「僕の目の裏には電灯の笠みたいに虫がいっぱい死んでるんだよ」 それを聞いてか聞かずかズーズーは遠くを見てビールをやっと飲み干した。 「どいつもこいつも分からずやなの。分からずやの犯罪ね、これは」 「うう・・」と潰されたような声を出して、一瞬マクマードは死んだフリをした。 「風化するものは風化すればいいじゃんか」ズーズーはコップを二つ片づけて、裸足でマクマードの脛を踏んで通った。 「涙の陰で泣いてる人もいるんだから」 「姉ちゃん、置き石やんないか」 浜広く、ズーズーはちょっとげっぷをした。急に寒い空気に当てられたからだろう。 家の横からは夏になるとうちの許しも得ずに近所の人たちが泳ぎに来るが、冬の間はプライベートビーチみたいになってた。 そこに並んで、二人は幼い頃にやった遊びをした。 置き石とは、地面に丸を描いてそこに石を乗せていく。はじかれても丸の中にいれば助かる、最後まで多く残った方が勝ちというものだ。 海の近くに住んでいる遊び方だ。 「何回ずつ?」ズーズーが聞いた。 この遊びをやってた頃はチャンドラーもいた。 溜まっていた夜が、インクのようにかき混ぜられて、真っ暗になる。 ズーズーがどこにはじこうか考えている時、「世界から戦争がなくなっても子供の中でいじめはなくならない」とマクマードは言った。 「自殺を考えようとするのは人間だけかな?」 「好きに生きるにはお金がいるからね」ズーズーがやっと爪先で石をはじいた。 「んー、そう来たか」マクマードは腕を組むまねをした。 ズーズーは笑って、耳のほつれ毛を指でかき上げた。 「姉ちゃん、淋しいか」マクマードは石をはじこうと前屈みになった。 もう寝る時間になってマクマードはカーペットの上に大の字に寝そべって放心状態になってただ上を見ていた。 とにかく造りが寒いんだ。 指は外に近い方から冷たくなってくる。 ズーズーが落とした暖炉ももう点ける人はいない。 マクマードはズーズーを見送るように寝る前に玄関に立った。 姉ちゃんの一番美しい写真がなくなっていた。 ガラス窓がピシッと鳴った。 汽車が出たのだろう。 幸せの似姿 「僕たちは離婚した父親の子供だろ。どうして可愛いんだろ」 マクマードは兄のチャンドラーと電話で話していた。 「母性本能かな?」 「母性本能? あの母さんに限って・・」 電話の向こうでチャンドラーは笑っているようだ。 少年少女の合唱が聞こえる。 コットンの白いシャツを真夏のように着て カラリと君が駆けてくる 日に焼けた襟足がオレンジに光る 日暮れまで遊ぼうね 約束した なつかしい海の鼓動 思い出しにゆこうね そこから生まれる風をふたりで数えよう いくつもいくつも数えよう 心ごと私も風になって 君の胸まで吹いてゆきたい 君の胸ポケットにつかまった 風になりたい風になりたい 「ああ、日本の奴がかけてるんだ。夏の少女のまなざしでだったかな」 「僕も普通の思い出が欲しいよ」 チャンドラーは言いづらそうに黙った。 僕のところにもチャンドラーのところにも同じ太陽が出てるなんて信じられないまま。 「父さんに黙って軍隊に行ったから、怒っていたな」 「耳の中はウールでできています」 「マクマードは父さんに毒されてないんだな」ほっと安心するようにチャンドラーは息を吐いた。 「休み? 休みってどういう事?」 「休みってのは何にもないってことだ」 「へえ、訓練生にも休みがあるの。じゃまた電話かけるね」 コットンの白いシャツを・・、マクマードは口ずさみながら、洗濯物を広げた。夏だからよく乾く。チャンドラーのいる営隊の砂の匂いがした。 自分が通る時、水槽の影が映った。 熱帯魚を飼い始めたのはマクマードの趣味だ。 青空が空に貼り付いている。 「弟なんですけど、チャンドラーいますか。チャンドラー・ティーカップ・ソール」 「さあ、今はいないみたいだけど」 「じゃあ、前言撤回しますと伝えて下さい」 チャンドラーは違う営隊にいた。 「俺が隣人を愛さなくたって神は罰を与えるのかねえ。それじゃ隣人を愛してないってことじゃないか」 「あーあ、女でも抱けば楽に寝られるのにな」 チャンドラーは男たちの下ネタと堕落に辟易していた。 チャンドラーは今、自分の部隊から逃げ出したアンダーソンという男を探しているのだ。 どうやらマラサースに逃げるつもりらしい。せっかく俺が努力してるのに。 とにかく連れ返すんだ。 ティーカップ・ソール家は靴の型を取る仕事で財を成した。 「煙草に濃いも薄いもあるのか」チャンドラーは他の訓練生に言われて聞いた。 「ここからマラサースまでどのくらいある」 みんなは笑った。 「あの見える街がマラサースさ」 目を横に向けるとサンド色をした街が見える。 チャンドラーは煙草を前に放って腰に付けた袋を持ち直した。 沢を抜けて、すぐマラサースの街に着いた。ひっそりとしている。 チャンドラーが兵隊だと知ったら何かと売りつけようとする人たちが群がってきた。 「ここから外へ出るにはどうしたらいいんだ」 言葉が通じなくていらいらした。やっと男の一人がのっぺりした建物を指差した。 古いホーム駅らしい。 アンダーソンはそこで隠れて家族からの手紙を泣きながら読んでいた。 膝を折って狭い所に押し入れた体は軍服を着た少年のようだ。 「よお」木板を一枚開けて、チャンドラーは声をかけた。 目に滲んだ涙を隠そうともせず、アンダーソンはしゃくり上げた。 チャンドラーは駅で電車を待っているようにアンダーソンの前に座った。 「キリストは靴磨きの職人の中にいるのさ。決して人の顔を見ようとしない。罪を見てる」アンダーソンに聞かせようとしたのかチャンドラーは呟いた。 「俺の隣人になるか」 「チャンドラー、卵ってパスタに合わないのかな。だって卵を主役にした卵パスタってないよね」 チャンドラーは元の営隊に帰っていた。 「母さんは察しがよすぎる」チャンドラーは言った。 「なあ、マクマード。俺はどんな難題も片手勝負だった。男が罪だったってことか」 マクマードはそれを笑って聞いていた。 「今、僕はエンプティーにある」チャンドラーは言った。 「本当の金持ちはねえ、目先の金にとらわれないってことさ」 マクマードはそれを聞いていたが、いつからか緊張で口からプラスチックの匂いがするようになった。 この電話が戦争に通じてるかと思うだけで喉がカラカラになるのだ。 「お前も俺も幸い中の不幸なんだよ」 それから数日後、マクマードは地上で溺れるがごとく足をバタバタさせていた。 蝋のような足を上げて、自分の足を見ていると、チャンドラーからの電話があった。 「マクマード、やっと分かったよ。外に出て浜に出てごらん」 マクマードはすぐそうした。 玄関を開けると虫の匂いがした。 だが、マクマードはすぐに引き返して電話を取った。 「砂が熱くて歩けないよ」 それが普通の思い出なんだ、と二人は気づいた。 「戦争も欲まみれさ」そう言ってチャンドラーは電話を切った。 ズーズーが訪ねて来たのはそのすぐ後だった。 手にはスワロフスキーがある。チャンドラーから送られてきたのだと言う。 その日はズーズーから二人の兄姉のことを聞いた。 二人とも父さんの顔を見ないで生まれたマクマードの味方だということ。 ハッサンが親代わりだったマクマードのことをずっと心配していたこと。 「私、いい子だったよね」 マクマードは一人になった家からズーズーが出ていく時、渾身の思いやりを込めてドアを閉めた。 チルドレンハーブ  私の家がもっと明るく広かった頃。 父が帰って来ると両親は口論ばかりしていた。 この日は特に険しかった。 「神も恐れないお人だよ、あなたは」窓も玄関も開け放ってあるので、まだ春だというのに母はタオルで汗を拭きながら叫ぶように言っていた。 ズーズーはシルバニアファミリーを床の上に広げて遊んでいた。兄のチャンドラーはいない。 「ウインナーにするなら、キッチン用の台所にしなきゃいけないって言ったじゃない」父が話を逸らそうとしたのは明らかだった。この家にあるのは飾りのキッチンなのだ。 チャンドラーとズーズーは秘かにこの父のことを雷帝と呼んでいた。 カメレオンのように目をギロギロ動かさせて、ズーズーは両親の話を聞いていた。 両親の口論を聞いてお腹の中のマクマードはどう育つんだろうか、と思った。あっ、私もそうか。 「この人形、何て名だい」 「・・マクマードよ」 「じゃ、マクマードにしよう」 マクマードは嫌な子なのに。ズーズーはシルバニアファミリーを置いてしまった。 私に何を教えようとしているのか。 「ズーズーが可愛くないのか」 蝉の声が母さんのいびきに聞こえた。 父は何も答えなかった。 「マグダレンがそんなに可愛いのかねえ、いや、シモネッタか。自分の子供の子に手をつけるなんて・・」母がヒステリックに叫んでいる。わざと子供たちに聞こえるように。そんなことしたら父さんが出ていってしまうのに。 父さんの声はくぐもっていて聞こえない。 母さんは大した用もないのにこの家を歩き回って話しているようだ。チャンドラーを探しているのだろうか? ズーズーの視界に父が入ってきたかと思うとテーブルの席に着いて、ズーズーに笑いかけた。ズーズーは目を外した。 父さんも何か言い返している。 テーブルに母さんもやって来た。 何か出して、「あんたの名声も地に落ちるよ」とエプロンで手を拭った。 女に何が分かる、と父さんはブツブツ言って、母の出したウインナーを楊枝で刺して食べた。 母さんがズーズーのことを気にしたかと思うと、またキッチンの方へ消えた。 全てのドアを開け放しているので父さんや母さんがどこから出てくるか分からない。 母さんがキッチンを通ってズーズーの後ろから青い紋様の付いた小皿を差し出した。 「あんたも食べる?」ウインナーに楊枝が刺してある。 「ん」ズーズーは楊枝を持つと一口で食べた。 「私はねえ、この家にお手伝いがいるといいと思うんだよ。そうしたらあんたと口を利かなくても済むね」 父さんは宙を見て何か考えていた。自分で出したのかいつの間にかビールの泡が口に付いている。 チャンドラーはこの口争いを聞きたくなくて出ていってしまったのだろうか。まだ小さい私は邪魔になるだろうか。 雷帝が帰ってくる前に出ていった。 「母さん、シルバニアファミリーにはアルバニアファミリーってお友達がいるのよ」 「父さんに言いな。またそれを買ってもらいたいとでも言うのかね、マケドニアだか何だか知らないが」 「だけどマクマードは・・」 「だけど、はやめなさいって言ったでしょ」 このお人形たちは「買ってもらった物」ではないのに。ズーズーは口を噤んだ。 父さんが立った気配がするとズカズカと広げたシルバニアファミリーの前を革靴で通ってかけてあった帽子を被った。 「もうお帰りですか。お手伝いのこと考えといてくださいよ」またエプロンで母さんは手を拭く。 出ていく時に一度、ふざけて父はズーズーに自分の大きな帽子を被せた。 「またね、父さん」 夜になってチャンドラーが帰ってきた。しんとした家の中を見回している。ズーズーはまだシルバニアファミリーを玄関前に広げていた。 「兄さん、どこへ行ってたの」 「家に帰ったら財布がなかったからどこかと思ってさ」 チャンドラーは青い革でできた折り畳み財布を手でポンポンやっている。 と、ズーズーの横に座った。 「街を回ってきたにしては早いんじゃない?」 「街のあちこちには近道があって、来たばかりじゃ分からないものさ」 秘密を打ち明けるように言ってから、チャンドラーは足を伸ばした。 「結果オーライってわけにはいかんかなあ」 その声には父さんと同じ深いため息が込められていた。 「もうすぐまたマクマードが生まれるのに」ズーズーはマクマードを少し動かした。 「あっ、弟の名前決まったのか」 「あとそれから、お手伝いさんが来るのよ」 「母さんは?」 「寝てる」 そっか、と勢いをつけてチャンドラーは立ち上がった。 「父さんと母さん、何か言ってた?」 「何か、マグダレンの子のシモネッタに父さんが何かしたって。マグダレンって私たちのお姉さんよね? だけど・・」 だけど、と言いかけてズーズーは口を噤んだ。 「だけど?」 「ううん」ズーズーは首を振った。 「いいか」ズーズーが肯くと、上からチャンドラーはズーズーの髪を掴んでグシャグシャにした。 古いカナリヤが鳴いている。 その日、チャンドラーは父のことを雷帝とは呼ばなかった。 ブルーレタスサンド  その席には見た事もない母さんの孫、ピリオリ、ヤスミンが同席していた。 マクマード、ズーズー、チャンドラーにとっては甥、姪ということになるが初めて知った。 「マクマードもズーズーもありがとね。こんな所まで連れて来てもらって。私には人生の楽しみもなかったけど・・」 もう夜になっていた。観光も終わって、この海の上にあるようなレストランから花火が見えるはずだった。 おばあちゃん、おばあちゃんとピリオリとヤスミンは母さんの傍から離れない。母さんはこの上なく嬉しそうだった。 チャンドラーは塀に寄りかかって煙草を吸っていた。ズーズーとマクマードは近づこうか近づくまいか塀から見ている。 「変な咳をするようになったのよ」 母さんは人が変わったように雷帝の話をするようになっていた。 「あの人も毒にかかっちゃ終わりだね」 ズーズーもマクマードも黙っていた。チャンドラーは納得するように肯いて、 「母さんは父さんを愛していたんだね」 「そうなのよお」母さんは心変わりをものともせず笑った。 ズーズーもマクマードも黙って笑って聞いていた。 ピリオリとヤスミンは四人が話している間はおとなしくしていた。二人とも目配せして笑っている。 「私には人生の楽しみもなかったけど」 母さんは隣に座っているそんなピリオリの髪をクシャッとやった。 「こんないい日が来るなんてねえ」 「母さんの行いがいいからよ」ズーズーはそう言った。 「そうかねえ」母さんは目を斜めにしてズーズーを見た。 「ズーズーはさあ、・・」そう言いかけてやめた。 ズーズーは黙ってしまった。 マクマードもご機嫌を取ろうとヤスミンに笑いかけ、 「母さん似だね」と言った。 「この子たちの母親はよくできててね。私なんかするこっちゃない」 「母さんもそろそろゆっくり休みなよ」今度はチャンドラーが母さんに酌をしながら言った。 飲み慣れないはずだった酒をガブリと飲み、カッハハと渇いた笑い声を母さんは立てた。 「このお酒おいしいわね」ズーズーは横のマクマードに少し小さい声で話しかけた。 うん、と肯いてマクマードも一口飲んだ。何度飲んでも喉が渇いた。 「父さんのことで落ち込んでるかと思ったけど」チャンドラーは一つ大人だ。 「あの時は辛かったけど、私もこの子たちに助けられてね」 今度はヤスミンの頬をツンツンと指でつついた。ヤスミンは声も立てずに笑った。 「私には人生の楽しみもなかったけど」 「母さん、さっき私に何か言いかけたけど、何?」 「ズーズーに?」母さんは驚いたような顔をした。 「何も。そんなこと言ったかしらねえ・・」 「そう。それならいい」 「母さんもボけたかな」チャンドラーが笑いを取ろうとした。一人で笑っていた。遠慮がちにズーズーも微笑んで酒に口を付けた。 「私はまだボけちゃいないよ。ボけられないよ、この子たちに迷惑かけられないもんね」代わる代わるピリオリとヤスミンの顔を見た。 「恥ずかしがってるのかな?」チャンドラーが笑いを収めて二人の顔を見た。 「変なこと教えないでよ」母さんが往年の尖った言い方をした。 「私がボけたらあんたたちの世話になるんだからね」母さんはまた一口酒を飲んで料理をつまんだ。 また怒った、とマクマードは手汗の滲んだ拳を膝の上で握った。何も変わってないんだ。 「このごはん、冷めてるね」 「その方が味が分かるんだよ。こんなに海が近いんだから旨いだろ、母さん」 「まあまあだね。おいしいかい、坊やたち」 ヤスミンは肯いて、ピリオリは「おいしー」と子供っぽい言い方をした。 母さんは二人の言葉を聞かせないようにして、「おいしいって。よかったねえ」と三人の方を向いて通訳した。 よかった、とチャンドラーは酒を置いて肯いた。 「もうそろそろじゃないかな」チャンドラーがさりげなくズーズーとマクマードを呼んで塀の前に立った。 急に母さんが糸を解かれたみたいにピリオリとヤスミンに話し出し、二人も生き生きとそれに応えている。 「俺らは邪魔ものみたいだな」チャンドラーも吸いつづけで疲れているみたいだ。肩をぐいと片方上げて首もひねって海の方を向いた。 「本当に幸せな人だったよ」戦争を経験しないで母さんはその幸福な一生を終えようとしている。 マクマードはまだテーブルに着いている食事が始まった三人をその小さな瞳で見ている。 僕とは違う人生が・・。 「チャンドラー、この頃どうなの」 「うん・・、まあまあだ」 「そっか、マクマードはどうなの」 「僕はそれなりにやってるよ」 「三人ともまあまあか」ハハハと声を立ててチャンドラーは笑った。 母の笑い声の方が高かったが。 「うん・・」何とも言えず煙草を呑んで納得したようにチャンドラーは黙った。 むっくりした背中。 「ちょっと太ったんじゃない」 ズーズーがそう言った時、めんどくさそうにこっちにも母さんが顔を出した。不機嫌な顔を隠そうともせず。 雲は馬鹿にしたようにゆっくり動く。 「花火は?」 「もうすぐさ。子供たちを呼んできたら?」 母は花火は誰と見たか、が大切なんだよ、とかねがね言ってきた。 赤とピンクの花火がついと上がった。ピリオリとヤスミンが歓声を上げておばあちゃんを呼んでいる。 「母さん、私たち母さんに感謝してるわ。父さんの言い方だったら子供を育てるのは母さんの責任みたいだったから」 母さんは仏頂面を崩さずにズーズーの握手に応えた。 やっぱり向こうのテーブルで見るつもりみたいだ。 ピリオリとヤスミンと見たこの日の花火を母さんは語り継いでいくだろう。そこにマクマードもズーズーもいないだろう。 「砂のような雲だなあ」チャンドラーはもう煙草を吸っていない。 それでも潮ざいは止まない。 カウレイスピイプルズ  列席者の声が闇に隠れるように聞こえてくる。 マクマードはデッキチェアに座って脚をモジモジさせていた。 なぜ自分だけがデッキチェアなのか。父さんの葬式に席が足りなかったからだ。マクマードだけは庭にあったデッキチェアを使っている。 目前には父さんの棺が花に囲まれ、向かいには見た事もない親戚の人がズラリと並んでいる。 横にはズーズー、チャンドラーが座ってい、神妙そうな様子だ。 三人とも黒地に灰のネクタイやブローチをしている。この日のためにビスポークしていたものだ。 「口からピーナッツの匂いさせてたからてっきり・・ご家族の方は・・」 「ピーナッツの匂いの煙草を吸ってただけって・・」 列席者が変わる度、何度も耳にしていた。 「ハッサンっていうお手伝いだって・・言うじゃない・・」 マクマードは真向いの子供連れを見ていた。まだ小さいその子は暇そうに母親の手に甘えている。 「マクマード」ズーズーがマクマードの手を握って立ち上がった。 二人とも頭を下げる。偉い人みたいだ。 「生前はお世話になりました」 ついとその子連れが席を立ったのをマクマードは目で追った。泣き出したのだろうかと思ったからだ。 話が終わってズーズーが席に戻ろうとした時、肘を掴まれた。 「マグダレンさん」ズーズーより少し年長のその女はマグダレンというらしかった。 「シモネッタちゃん」マクマードは何でそんな事までズーズーが知っているのかと不審に思った。 親戚は数え切れないほど多い。 「ハッサンってあんたらの兄弟でしょ。何で知らないフリするの」マグダレンは怒っていた。 「こんなチャラチャラした服着て」マクマードのネクタイを引っ張る。 「言いたいようにさせたら駄目じゃない」 「言いたいようにさせたらいいじゃない」ズーズーは意外に言い返した。 勘違いさせておくのか、とマクマードは心配になった。 チャンドラーの方を向くとチャンドラーもその二人の様子をじっと見ていた。 シモネッタは白いフリルの礼服を着ていた。まだ10歳くらいだろうか。 「あんたも血を分けた兄姉よね。父さんの顔でも見たらどう」ズーズーが喧嘩腰になって言った。 「何であんたらの母さんも来ないのよ」 「そんなのはうちの勝手でしょう。家庭内干渉しないでよ」 二人は一旦別れた。でも、じっとマグダレンはシモネッタの手を握りながらじっとズーズーの方を睨んでいる。 「ズーズー・・」軽く手の甲でチャンドラーはズーズーに触った。 「分かってる」 マクマードは後ろの窓を見た。 日の当たっている部分だけ輝いて菓子のようだ。 また目を元に戻すと、最後の方の列席者が花を置いてこちらにも頭を下げる。 その度にこちらも頭を深々と下げる。 頭を上げるとマグダレンは白いハンカチを目に当て、横を向いていた。シモネッタがそれを心配そうに見ている。 棺が運び出される時、チャンドラーもマクマードも手伝った。 外は秋の風。777とイチョウの葉が落ちてくる。 先ほど降った雨で、風に揺れる度に雨粒が落ちてくる。 礼拝所からの広い道には道を空けるように誰もいない。その向こうには庭のような墓地がある。 そこまで運んだところで祈りまでの間、マクマードはデッキチェアを運び出しておこうと礼拝所に戻った。礼拝所にはまだ何人かの人たちが残っていて、マクマードを見つけると道を避けた。 デッキチェアを持って戻ってくると、またマグダレンとズーズーが言い争いをしていた。 「チャンドラー、誰、あの人」 「父さんのあれだ」 チャンドラーは子供だ、という意味で言ったのだがマクマードは信じられない気持ちで聞いていた。 「何で、ズーズーと口争いしてるの」 「何か、気に入らないことでもあったんだろう」チャンドラーは煙草を咥えている。 そのチャンドラーの肩を誰かが叩いた。 チャンドラーは後ろを向いて、「ああ、あの警察の奴か」と応えた。その目線の先には目立たない黒服の男がいる。 祈りが終わって棺が土の中に横たえられると、近しい人たちが土を一掴み振って、チャンドラーもマクマードも真似した。 ズーズーは灰色の手袋を外さなかった。 道に溜まった落ち葉が雀のように吹き寄せられる。 「怒られた」帰って行くマグダレン母娘に目をやってクフフとマクマードは笑った。 ズーズーはまだ憤懣やるかたないといった風情だ。 「ズーズー、いつまでもツンツンしてないでさ、」くぐもった声でマクマードは下を向いて言った。 「人に懐いてよ」 チャンドラーはオイルがまだたっぷりと残っているのに火の点きにくくなったライターを見ていた。 マクマードとズーズーの二人は片付けのために礼拝所に戻った。デッキチェアのために戻る必要もなかったのだ。 「目から塩で出るなんて不思議だね、ね、姉さん」 ズーズーは何も言わず椅子を畳んでいた。 チャンドラーの方を見るとチャンドラーの上にぽっかりと雲が浮かんでいた。 雲が作り物みたいに僕たちを見てる。 ズーズーはチャンドラーの方へ立って行った。 チャンドラーがズーズーの手を摑まえる。 ズーズーは顔を元に戻さずに、「好きだから続きそう・・好きだから・・」と言った。 ズーズーは結婚まぢかなのだ。 そんな二人をよそに、椅子を片付けながらマクマードはまずは始めに挨拶をしよう、と思った。 おはようもお休みもこんにちはも人に会ったら元気に大きな声で挨拶をしよう。 それで友達もできるはずだ。
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