エピローグ

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エピローグ

 顏に何かが触れてぼんやりと眠りから覚醒する。触れているのは唇だろうか。柔らかいものが、額や唇に、触れたり離れたりを繰り返している。ゆっくり瞼を開くと、諒が微笑んでいた。カーテンの隙間から差し込む橙色の光、今は夕方だろうか。 「セノ、おはよ。よく眠れた?」 「……はよ」  まだぼんやりとしながら体を起こした後、いつ来たのかと尋ねようとして、今朝諒が隣に引っ越してきたことを思い出した。 「片づけ終わったから。はい、これ」  そういって諒が差し出したのは、隣の部屋の鍵だった。  あまりに急な引っ越しを寝起きに知った俺は、もしかしたら夢かもしれないとどこかで思っていた。しかしこれは現実らしい。 「いつでもおいで」 「……今から行ってもいいか?」 「もちろん」    隣の部屋にいくと、そこには前の部屋と同様にシンプルでオシャレな空間が広がっていた。自分の部屋も同じマンションの一室のはずが、まるで別の建物にいるようだ。写真映えしそうな部屋だと感心ながら一緒に部屋を見て回っていていたが、僅かに違和感を覚える。 「……なんか、二人部屋みたいだな」 「あぁ、気がついた?」  ダイニングテーブルが一人暮らしにしては大きい、ソファもそうだ。しかしこれは来客用と考えれば納得出来る。ただ、他にも食器がやけに増えている気がするし、何より、前の部屋ではシングルだったベッドがダブルになっていた。 「セノの生活に口出す気はないから安心して。あぁ、食事だけは別。絶対こっちに食べにきなよ。他は……生活と仕事で気持ちを切り替えたい時や、息抜きしたい時はこっちに遊びにおいで」  諒は多少強引な一面はあるが、それでも俺の性格をよく知ったうえで気を使ってくれてる。そんなところは、本当に昔から変わらない。最初に諒と話したあの新聞の日から、ずっと変わらない。  あの頃のように、諒と毎日顔を合わせるのが当たり前になる。  部屋を見たら急にそんな実感が湧いてきて、ふいに目頭が熱くなった。 「諒」 「ん?」 「ありがとう」  振り返った諒にキスをした。そして背中に腕を回して胸元に顔を埋めた。 「もう勝手にいなくならないから。もし、俺がまた諒の前から逃げそうになったら全力でとめて」 「ん、わかってる。それに何回いなくなっても、俺はまた、セノを見つけるよ」    ――ずっと求めていても口に出来なかった。  諒の体温が、頭を撫でる手から、体から、唇から伝わってくる。触れたかった。抱き締めたかった。  俺も諒もまた失敗するかもしれない。それでももう、その手を離したくなかった。  二人で新しいテーブルを囲む。そこに並ぶ諒の手料理はどれも美味しくて箸が止まらない。  行儀は悪いが、不意打ちでご飯を食べている諒の姿をスマホで撮った。  諒はその行動を咎めずに「写真映えする部屋にしておいて良かった」と笑うが、一番写真映えしているのは目の前でご飯を食べている諒だった。そんなこと口にはしないが。    そういえば、引き出しに入っていたくたびれた封筒を諒に見つかった。引っ越してきた諒がどうしてもそれは自分の部屋に置きたいと言うから、丸ごと渡した。どうせ写っているのは本人だけなのだから構わない。  二人で新しい部屋のソファに座り、懐かしい思い出と照らし合わせながら写真を見た。  もう諒の写真を撮ることはないと思っていた、いつかは捨てなければいけないと思っていた。この自分だけの宝物を、まさかまた諒と一緒に見る未来がくるなんて想像できなかった。  写真をすべて見終わると、諒は俺の肩に寄りかかってスマホのシャッターを切った。  諒が見せるスマホの画面には、いつも通りの諒と、不意打ちに驚く不細工な写りの俺がいた。 「どうせ自分の写真は撮らないでしょ。セノの写真と二人で撮る写真は俺の担当ね」  自分の姿が写真に写るなんて、一体どれくらいぶりだろう。  気恥ずかしさに顔を顰めていると諒がふざけてまたシャッターを切った。  もうやめろとスマホを取り上げようとしたら、諒は楽しそうに笑いながら俺を抱き寄せてキスをした。    唇が離れると俺は諒の肩に寄りかかった。  今は二人で過ごす何てことない時間が、ただ幸せだ。俺はこれからもこうやって、諒から伝わってくる体温に何度も安心するんだろう。  二人で作る宝物が増えていく。 〈了〉
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