フォルシードの真実

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フォルシードの真実

 診療所の最寄り駅からタクシーで一時間。  先生の行きつけだという個室居酒屋に来た。  何食わぬ顔で注文し、生ビールを気持ちよさそうに飲む先生。  対照的に僕は、先生に先ほど言われた「言っておかなきゃいけない事」の内容が何なのかを考えて、ずっとソワソワしていた。 「飲まないの?」  頬をほのかに朱に染めた先生が、僕の顔を覗き込む。  僕が一杯目のビールを半分を飲んでいる間に、先生は既に三杯目に突入していた。 「あ、いえ」  僕は残りのビールを飲み干し、おかわりを注文する。 「別に、気を遣うことはないよ。飲めなきゃ無理しなくても。今はそういう時代だから」  気を遣うことはないと言われ、僕は思い切って話を切り出すことにした。 「──あの、診療所を出るときに先生が言っていた『言っておかなきゃいけない事』って、何ですか? それがずっと気になっていて……」  先生は黒毛和牛のユッケを頬張りながら、「あぁ」と答える。 「実はな、あの万能薬、偽物なんだ」  僕の背中に寒気が走り、一瞬で酔いが醒めた。 「うそ……」 「あれ、本当は砂糖をカプセルに詰めただけなんだよ」  先生が悪い事をしているのか冗談を言っているのか分からなくなり、もはや自然に笑えてきてしまった。 「でもあの薬、すごく効いたって言ってくれる患者さんが大勢いらっしゃるじゃないですか」 「そうだなぁ」  ユッケを飲みこんだ先生は、新しく来た四杯目の生ビールを一気に半分飲み、静かにジョッキを置いた。 「プラシーボ効果って、知ってる?」 「はい。自分が飲んでいる薬が効果のある物だと思い込むことによって、本当に病気の症状が回復してしまうことですよね」 「まあ、さすがに知ってるか。私の薬は、まさにそれなんだよ」  僕は先生が嘘を言っているとしか思えなかった。  いくらプラシーボ効果というものを頭で分かっていても、そこまで上手くいくものなのだろうか。 「しかし、ただ薬を渡しただけじゃないからな。ちゃんと診療したうえで、効果的かつ副作用の心配ゼロの偽物を渡している」   「じゃあ、最近来た女子高生の子が上手くいったのは、どういう原理なんですか?」 「私は彼女の手を見た。ペンだこがあったから、受験に備えて猛勉強をしていたことが分かったんだ。だけど、当初の彼女は明らかに自信が無さそうだった。たぶん母親がより良い成績を求めすぎたんだろうね。しかし万能薬を飲んだあの子は、集中力が上がったと思い込み、自分に自信が持てるようになった。母親も、万能薬を飲んだから娘の成績が上がったと思い込んだ。だけど本当は、あの子は万能薬を飲む前から勉強ができる子だったんだよ」 「彼女が勉強に集中できるようになったのは?」 「自信がついたからだろうね。自信が無い中で努力をするのは相当大変だ。不安になって、すぐに集中力が途切れる。でも自信がついたら……。それは彼女を見れば分かったよね」  しかし納得がいかない点がまだ残っている。 「彼女が人見知りを改善できたのは、なぜなんです?」 「急に勉強ができるようになれば、周りの人間は放っておかない。たぶん彼女に勉強方法なんかを聞きに来るだろうね。で、話しているうちに自然とコミュニケーションが取れるようになっていく。私はきっかけを与えただけだよ。彼女が母親によって奪われた、コミュニケーションのきっかけを、ね」  僕は驚いた。まさか気持ち一つで人がそこまで変わるなんて。  面白くなって、僕は先ほどのサラリーマンのことについても尋ねてみた。 「彼の場合は、さすがに気持ちだけじゃ変わらないですよね」 「ああ、でも結局は同じことだ」 「どういうことです?」 「彼は知らず知らず、仕事のプレッシャーやら何やらで呼吸が浅くなっていた。緊張状態が続いて呼吸が浅くなると、それに伴い血流も悪くなって身体のあちこちが不調になる。それを腹式呼吸によって改善したんだ。正しい呼吸法を覚えてもらい、血行を促進させた」  先生が彼に深呼吸をさせた意味を、僕はやっと理解した。 「なるほど、そういう事だったんですね」 「だが彼は、調子が良くなったのは呼吸を改善したからではなく、直前に万能薬を飲んだからだと思い込んだ。薬を続けて飲むことで、精神的な余裕も生まれた。そして自然な呼吸法に戻っていく。薬と呼吸の相乗効果で、彼は腹痛を治したのさ」  病は気からとは、よく言ったものだ。  ただの思い込みが、心身共に大きな効果をもたらすなんて。  僕は感心して、思わずビールを飲み干した。  先生もビールを飲み終わっていて、新しいものを注文した。 「でも、だとしたら、あんまり多くの人にこの万能薬を知られるのはマズいんじゃないですか? 疑いの目を向けてくる人もいるでしょうし、実際に効果を感じられない人も出てくるかもしれませんよ」 「いや、みんな気付かないだろう。それに、もし効果が無いと薄々感じ始めたとしても、そんなことはないと自分に言い聞かせるだろうね」 「なぜそう言い切れるんです?」 「みんな何かに縋りたいからだよ。人間ってのは不安定な生き物だから、支えが無いと生きていけないわけ。裏で恋愛してる恋愛禁止のアイドルを、オタクが応援するのと一緒。どれだけ心許なくても、一度手に入れたものを簡単に手放すことはできないのさ」  先生はつまみの鰻串を豪快に頬張った。  そのたくましい姿が、僕にはとても頼もしく見える。  ちょうど新しいビールが運ばれてきたので、また乾杯した。  それからしばらく黙々と食べて、飲んでいた。 「先生のそういう発想は、どこから来るんですか?」  二人ともかなり酔いが回ってきた時。何気なく繰り出した質問だった。  先生は一気に真剣な顔になって、顔を近付けるように僕に手招きした。 「いいか? これは誰にも言っていなかった事だが」  そう前置きしつつ、ポケットから薬を取り出して僕に見せた。  先生の万能薬とは違った、白い錠剤だ。 「それは……?」 「知り合いの医者から貰った薬だよ。市場に出回っていないから大きな声では言えないが、これがよく効くんだ。この薬のおかげで私は万能薬を作るというアイデアを閃いて、今こうしてボロ儲けしているわけだ。高額な料金を払って買った甲斐があった」 「ちなみにそれって、何の薬なんですか?」  目を見て小声で尋ねると、先生は不敵な笑みを浮かべながら自慢げに言い放った。 「頭が良くなる薬だよ」  思い込みの力を、僕は存分に思い知った。  だからこれからは先生を賢い人だと思い込むことに決めた。
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