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その日も比奈森さんは、5時間目の音楽が終わると早々に帰ってしまった。音楽室から戻る廊下を小走りで進んでいった背中は、わたしが着く頃にはもう教室から消えていた。すぐ帰れるよう、昼休みのうちに支度をしていたのかもしれない。6時間目の英語は割と得意な印象を持っていただけに、余計に不思議だった。
リコーダーをロッカーにしまった後、教室にひとつだけある空席に、つい目が行く。廊下側の一番後ろの席は、最初からそうだったみたいに椅子も机も整っていて、比奈森さんだけが煙のようにいなくなってしまったようだった。
「どうかした?萌子ちゃん」
じっと見ていたら、ミズキちゃんに肩を叩かれた。
「ああ、うん…比奈森さん、なんで帰っちゃったのかなぁって」
「あー、まぁ忙しいんじゃない?たぶん。たぶんね」
疑問に答えをくれたのは、ミズキちゃんの隣から顔を覗かせるハナちゃんだった。袋に入れたリコーダーを、バトントワリングのようにくるくると回している。
「忙しい…って、比奈森さん何かやってるの?習い事?」
「えっ、萌子ちゃん知らないの?〝メグルン〟!」
「……めぐるん?」
初めて聞く単語に首を傾げると、2人はびっくりした様子で顔を見合わせてから、〝メグルン〟について教えてくれた。
メグルンというのは比奈森さんのニックネームで、3年生からモデルをやっている小中学生向けファッション誌でついたものらしい。わたしは自分で持っている漫画家、図書室の児童文学くらいしか本を読まないし、自分用のスマホも持っておらず、たまに時間制限つきでママのを借りる程度だから知らなかったけれど、比奈森さんは特にSNSでの人気が高く、雑誌のアカウントの他に自分のアカウントも持っていて、動画や写真を投稿すればすぐに何万もの高評価がつく、いわゆるインフルエンサーなのだそうだ。
〝メグルンポーズ〟なんてものまであって、「結構流行ってるんだよ?」とハナちゃんが見せてくれた。〝指切りげんまん〟の形にした両手の小指で頬を触るポーズは、言われてみれば、たしかにどこかで見たことがある気がした。
「じゃあ、早退とかお休みが多いのもお仕事で?」
「そうだと思う。係を決める時も、〝当番が一番回ってこないのにしてください〟って先生にお願いしてたし」
ミズキちゃんによると、係や委員を決める時、植物係には伊吹くんの他にも何人か希望者がいたらしい。そんな中で、忙しくてあまり学校に来られない比奈森さんがまず1枠におさまり、始業式からずっと休んでいたわたしも、体が弱くてなかなか学校に来られないんじゃないかという意見が出て、残りの1枠に入ったのだそうだ。
きっと、わたしの病弱説を唱えたのは、3・4年生の時も同じクラスだった子たちだろう。学校に行こうと思うとお腹や頭が痛くなったりして、何度か休んだことがあったから、そう思われるのも仕方ない。プラントが見えるようになって友達もできてからは、そんな体調不良はすっかり起こさなくなったけど。
「でも、すごいね比奈森さん。この前のテストも、ほとんど満点だったし…忙しいのにちゃんと勉強もしてるんだね」
空席を眺めて感心していたら、メグルンポーズの正確さを競っていた2人が、その格好のままこっちを向いた。ミズキちゃんはちょっと照れたように両手を下ろしたけど、ハナちゃんはポーズも脇に挟んだリコーダーもそのままだ。
こほん、と小さく咳払いをして、いかにも気を取り直したミズキちゃんが空席に目を遣る。
「モデル始めたばっかりの頃は、クラスでも真ん中くらいだったけど…そういえば、最近ずっと成績良いよね」
「いつ勉強してんだろーねー。すごいすごい」
「2人とも、前から比奈森さんと同じクラスだったの?」
訊ねると、同じタイミングで2つの頭が縦に動いた。小さな葉っぱが、ぴょこんと揺れるのが可愛くて表情が緩みそうになるのを堪えるわたしに、
「私とハナとメグルンは、1年生から同じクラスだったんだ。遊んだりとかはなかったけど」
とミズキちゃん。わたしの顔が意外と言いたげだったのか、補足するように話を続ける。
「別に避けてるってこともないんだよ?会ったら普通に話すし。でも、メグルンって、友達とか特に仲が良い子を作らないようにしてる感じがあってさ。いっつもニコニコしてて、誰とでも仲良くなれそうなのに不思議だよね」
三つ編みにした髪の先を指で弄りながら「ね、ハナ」と同意を求めると、知らないうちにメグルンポーズから腕組みの姿勢になっていたハナちゃんが、リコーダーの袋の先を顎にくっつけて口を尖らせる。
「みんなでお泊まり会とか誕生日会やろーって時も、誘っても来ないしねー。去年までは学校も毎日来てたし、忙しい忙しい!って雰囲気じゃなかったのに」
そこまで聞いたところでチャイムが鳴って、わたしたちは散り散りに席へ戻った。うっかり席まで持っていきかけたハナちゃんのリコーダーは、慌てて戻したせいでロッカーからニョキッと生えたみたいにはみ出していた。
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