0人が本棚に入れています
本棚に追加
3組の2人と別れた後、リコーダーを忘れてきたのに気が付いて教室に戻った。
掃除もとっくに終わって誰もいない教室は、朝早く来た時とは違う雰囲気があって好きだ。しばらく眺めてみるうちに、明日の授業で演奏のテストがあるのも思い出して、ついでに少し練習していくことにした。家でやると近所迷惑になるからダメって、先月ママに注意されたばかりなのだ。
音楽室からうっすらと聞こえてくるピアノの音や、校庭のスポーツクラブの子たちの声を聞きながら、自分の席で楽譜のプリントとにらめっこ。低いドの音がなかなか綺麗に出せなくて、難しいなぁとつまずく度に、ぼんやりと比奈森さんのことが頭に浮かんだ。
明日のテスト、受けに来られるのかな。比奈森さんはお家で練習できるのかな。さっき見た切り抜きの中では微かに膨らんでいた青い蕾が、今日も項垂れていたのを思い出すと、リコーダーが甲高い変な音で鳴いて、思わず溜息が漏れる。
「なんにもできないなぁ、わたしって…」
関係ないって言われたくらいで怖気づいたのが、情けなく思えてくる。比奈森さんが誰とも特別に親しくしないなら、相談できる友達もいないかもしれない。わたしみたいに、ひとりでうじうじ考えるタイプとも限らないけど、少なくとも、わたしはミズキちゃんやハナちゃんが話を聞いてくれると気持ちが楽になるし、2人が悩んでるときは何かしたいって思う。
もし、このまま比奈森さんの悩みが解決せずに、学校が嫌になってしまったら。前のわたしみたいに、体が来るのを拒むようになってしまったらーーー。
上の空のままリコーダーに息を吹き込んだせいで、また外れた音が出た。集中もできないし、明日の朝早めに来て練習しようかな…。
「力抜いて、そーっと吹いた方がいいかもよ」
突然聞こえてきた声に振り向くと、教室の後ろのドアの前に比奈森さんが立っていた。服装は朝と同じだけど、髪型がツインテールからお団子になっていて、髪のあちこちにカラフルなラメがついている。モデルのお仕事をした後なんだと雰囲気でわかったけど、雑誌やSNSの中と違ってプラントは萎れていた。
「ひっ、比奈森さん!なんで…」
「わすれものー」
驚いて固まっているわたしに、鞄も背負っていない比奈森さんは手持ち無沙汰な様子で、袋に入ったリコーダーを指揮棒みたいにくるくる回して見せる。既に忘れ物を手にしてるってことは、後ろのロッカーまで行って出ていくところだったってことで……いったいどこから聞かれていたんだろうと思うと、じわりと耳が熱くなった。
比奈森さんはいつも通りにこにこしながら、明日のテストを受けられるかどうか話しているけど、学校の話をしているせいなのか、青い蕾が微かに震えて縮こまる。それを見た時、咄嗟に言葉が出た。
「あの…っ」
空中に円を描いていたリコーダーが止まって、大きな両目が瞬きをする。わたしが立ち上がると、椅子の脚が床を擦って鈍く鳴った。
「わ…わたし…、やっぱり知らんぷりはしたくない」
体ごと振り返って対峙しても、比奈森さんは笑みを浮かべたままだ。でも、プラントの葉っぱや蕾が風が吹いているみたいに揺れている。今の一言だけで何の話か伝わっていて、動揺しているんだ。
「わたしには関係ないかもしれないけど…いつもキラキラして楽しそうな比奈森さんのこと、すごいなって思ってて…だけど、最近は学校にいる時しょんぼりしてるから、心配で…。比奈森さんには、前のわたしみたいに…学校行こうとしたら具合悪くなったり、そういう風になってほしくないの。困ってることとか悩みがあるなら、ほんのちょっとだけでも力になれないかな?わたしに、何かできることないかな?」
しんと静まり返った教室に、遠くから聞こえる声や音が滲んでは、溶けるように消えていく。教室の真ん中と端っこで向かい合っていると、時間が止まった錯覚さえして、息をするのも忘れそうになる。
どれくらいか、長く感じる沈黙が続いた後、比奈森さんが「はぁー…」と声が混じった溜息をついて、力が抜けたように近くの壁に凭れかかった。
「あーあっ、自信あったんだけどなー。パパにもママにも、マネージャーさんにもバレなかったし」
袋ごとのリコーダーを両手で持って胸の前に構える仕草は、これから魔法少女に変身するんじゃないかと思うほどポーズとして決まっていたけど、不機嫌そうに目を閉じて唇を尖らせる表情は、雑誌でもSNSでも教室でも見たことのないものだった。
小さく唸りながら、ひとしきり項垂れていた比奈森さんは、もう一度深くて長い息を吐き出して顔を上げると、眉尻の下がった困り顔でわたしを見て、少しだけ笑って言った。
「誰も巻き込みたくなかったのに……そんなまっすぐ言ってくれたら、お芝居できなくなっちゃうよ…」
最初のコメントを投稿しよう!