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八月に入ってまもなく、その子はやってきた。
よく晴れた、まぶしく暑い午後だった。
ぼくたちは、河原で沢蟹をつかまえていた。
岩を渡っていけば対岸まで行けそうな浅い流れの川だ。
水しぶきは陽の光をはじいて、白くきらめいた。
黄色のプラスチックバケツに入れた蟹が、かさかさと音をたてていた。
土手から下りて来たその子は、かがんでバケツを覗き込んだ。
ぼくたち──ぼくと同級生のマーくん、一つ年上の六年生のタクくん、タクくんの弟のミッちゃん──は、その子を見つめた。
見たことのない子だった。
ミッちゃんと同じくらい。一年生か二年生だろう。
色白で、まつげの長さがいやに目立った。くせのある髪の毛は内側にくるくるまわり、ふんわりと可愛らしい顔を覆っている。ポロシャツと半ズボンの格好もどこかあか抜けていて、育ちの良さを感じさせた。
ぼくたちが住んでいるのは、山あいの小さな田舎町だ。普段は静かなところなのだけれど、キャンプ場や貸別荘などがあるので、長い休みになるとよその人たちもけっこうやってくる。貸別荘は河原ぞいの白樺林の中にあるから、この子も貸別荘に来た子だと思った。
ミッちゃんが、捕まえたばかりの蟹をその子の前に突き出した。驚いて目を見開いたその子に笑ってみせる。
「大丈夫だよ。はさまれてもいたくないよ」
その子は、はにかみがちに笑い返し、指先でそっと蟹の甲羅をつついた。蟹は不満そうに足をうごめかした。
「レイ」
その時、河原の上で声がした。土手に続いている階段のところに、男の人が立っていた。
逆光で、顔はよく見えない。
黒っぽい服を着ていた。背の高い、若そうな人であることはわかった。
「にいさん」
男の子は彼を見上げた。
「待って、いま行くよ」
男の子はにっこり笑ってぼくたちに言った。
「またね」
階段を駆け上がると、にいさんと呼んだ人の手を取って林の向こうに消えてしまった。
ぼくたちは、河原に突っ立ったまましばらく二人の後ろ姿を見送っていた。
なにか綺麗なものが、ふわりと通り過ぎて行ったような気がした。
ぼくたちはその時、レイくんにすっかり魅了されてしまったのだ。
レイくんとは、次の日も会った。
朝っぱらから、ぼくたちは白樺林で遊んでいた。
みんな、レイくんのことが気になっていたにちがいない。貸別荘に向かう道はすぐそこだったから。
虫捕り網でカラスアゲハをおいかけていると、木立の陰からやって来たのはレイくんだった。
大きな黒い犬を連れていた。
リードが細くて、レイくんが犬に引かれているようにも見えてしまう。
種類はわからない。真っ黒で短い毛はつやつやとしていた。鼻は長く、両耳はぴんととがっている。すらりとした四本足、長い鞭のような尾。
ぼくはなんだか、昨日ちらりと見たレイくんの年の離れたお兄さんを思い出した。
「こわくないよ」
しりごみしているぼくたちにレイくんは言った。
「おとなしいんだ。生まれた時から、ぼくとずっといっしょにいるんだよ」
レイくんは、かがみこんで犬の首に手をまわした。犬は、目を細めてレイくんの顔に鼻面を押しつけた。
ミッちゃんが、おそるおそる犬の頭を撫でた。
「名前はなんていうの?」
「ヌル」
レイくんはにっこり笑った。
「ああ、それからぼくの名前はね、咲良玲」
レイくんは、ぼくたちをみまわした。
「きみたちは?」
「ぼくは土田充」
ミッちゃんが言った。
「兄貴の拓真だよ」
「植村雅弘」
と、マーくん。
ちょっと黙り込んだぼくにレイくんは目をむけた。
「ぼくは、酒井英晶」
「そう」
レイくんは、にこにこ笑っていた。まつげで目が隠れてしまいそうだ。
「うれしいなあ。これで友だちだ。貸別荘のほうには同じくらいの子がいないんだよ」
ぼくたちは午前中いっぱい、虫捕りをした。
木につながれたヌルは、おとなしくぼくたちを眺めていた。
切れ長の目までもが黒々としたヌルだった。
お昼ごはんをすませてからも、河原で落ち合った。
レイくんは、ヌルを別荘に置いてきた。
ミッちゃんが一番楽しそうだった。
いつもタクくんといっしょだから、同じ年頃の子と遊ぶのが嬉しいのだろう。
夕方、レイくんのおにいさんが迎えに来た。
逆光で、やはりその姿はよく見えなかった。
「またね」
ぼくたちは、ご機嫌で別れた。
その夜、ミッちゃんが死んだ。
†
ミッちゃんは、心不全で亡くなったのだと母さんが教えてくれた。
その夜、ミッちゃんはいつものようにタクくんと子供部屋で寝についた。二段ベッドの上がタクくん、下がミッちゃんだ。
夜更け、ミッちゃんが苦しそうな叫び声を上げたのだという。
目が覚めたタクくんは、驚いて下の寝床をのぞきこんだ。ミッちゃんは目を見開いたままこときれていた。
ぼくは、母さんに連れられてお通夜に行った。
タクくんにどう言葉をかけていいかわからなかった。
マーくんも同じだったにちがいない。大人たちはまだ家の中で語り合っていたので、ぼくたちは庭先をうろうろしていた。土田家は平屋の大きな家だ。
「まだ夏休みはたくさん残ってたのにな」
マーくんがうなだれてつぶやいた。
「うん」
「かわいそうに」
ふと、マーくんが地面を見つめた。
ひまわりがいっぱい咲いている花壇の前だった。土が乾いているのでうっすらとしか見えなかったが、動物の足跡のようなものが残っている。
ミッちゃんの家で飼っているのは猫ばかりだ。
これは、猫より大きな動物。
犬?
どこかの犬が迷い込んだのだろうか。
その足跡は、子供部屋の方に向かって消えていた。
一週間ほど、ぼくは外で遊ばなかった。
ミッちゃんのお葬式があったし、なによりその気にはなれなかった。
じいちゃんもばあちゃんも家で健在だ。自分が知っている人が死んでしまうのは、初めての経験だったのだ。
レイくんは、ミッちゃんが死んだことをどこかで知っただろうか。
だとしたら、がっかりしただろうな。せっかく友だちになれたのに。
マーくんと、貸別荘の方に行ってみようか。
そう考えていたやさきだった。
マーくんも死んだ。
マーくんが死んだのも夜だった。
ミッちゃんと同じ、急性心不全だった。
町は、ちょっとした騒ぎになった。一週間のうちに、子供が二人死んだのだ。しかも、同じ死因で。
何かの伝染病ではないかと言い出す者がいた。悲しい偶然だと首を振る人がいた。ぼくのばあちゃんは、お祓いを頼むとまで言い出した。二人ともぼくの友だちだと知っていたから。
ぼくは、マーくんの家に足を向けた。商店街の一角にあって、文房具屋さんをしている。
もちろん店は閉まっていた。お通夜は斎場でするので、家の中はひっそりしている。留守番の人がいるくらいなのだろう。
ぼくは店とは反対側の玄関にまわった。玄関の前の細長い庭に目をこらした。
そして見つけた。
うっすらとついた大きな犬の足跡を。
マーくんの家も犬は飼っていない。
迷い犬?。
それとも──。
「ヒデ」
ぼくはぎょっとして振り向いた。
タクくんが立っていた。
「なに見てた?」
「ああ‥‥」
「足跡、あるだろ。おれの家にもあった」
ぼくは、タクくんを見つめた。
タクくんはやつれて、目が血走っているように見えた。
無理もない、可愛がっていた弟と、友だちをあいついで亡くしてしまったのだ。
「おれ、一番はじめに死んだミツの顔を見たんだ」
タクくんは、ささやくような声でいった。
「すごい顔だった。死んでいるのに目を見ひらいて、両こぶしをあんぐり開いた口に押しつけているんだ。叫んだまんまの顔だった。なにか、とてつもなく怖ろしいものを見たような」
ぼくは、何も言えなかった。
「マサも同じだったって」
タクくんは、もう一度庭に目をむけた。
「なんでここにも足跡があるんだろう」
「うん」
「あいつらに会ってから、いやなことばかりだ」
あいつら、がレイくんとヌルだということはわかった。
ぼくも、足跡を見てどう言うわけかヌルを連想してしまっていた。
ただ、ミッちゃんとマーくんの死にどう結びつくというのだろう。
「寝るのが、怖いんだ」
別れる時にタクくんは言った。
「ヒデも、気をつけてな」
†
タクくんの言葉のせいか、ぼくも眠れない日がつづいた。
夜の庭に、ヌルがうずくまっているような気がした。
どうしてこんなに不安になるのだろう。あの足跡はただの偶然だ。レイくんの犬がミッちゃんたちの死に関係あるはずがない。
ちょっとした物音にも怯えるぼくを見かねたらしく、母さんが子供部屋に自分の布団をもってきた。
「隣で寝てあげる。だったら怖くないでしょ」
母さんは、とても心配そうだ。
ぼくはうなずくしかなかった。
その夜の夢には、レイくんが出てきた。
広い河原にレイくんはいた。
隣にはお兄さんが立っている。
夢の中で、ぼくははっきりとレイくんのお兄さんの顔を見ることが出来た。
レイくんとよく似た、きれいな顔だ。十年くらいたったら、きっとレイくんもこんなふうになるのだろう。色白で、彫り深く、頬に影を落とすほどまつげが長い。巻き毛の髪型まで同じだった。
ぼくは、河原の対岸にいた。
レイくんは、ぼくに手を振った。
「酒井英晶くん!」
ぼくは応えようとした。すると、レイくんのお兄さんがうずくまった。
うずくまり、黒ぐろとした影に形をかえた。
顔が前に突き出し、両耳が立った。手足は細く長い四つ足に。しなやかな胴体に筋肉が浮かび上がった。
尾を立てて、そいつは大きく伸びをした。
牙をむきだしたヌルがそこにいた。
ヌルはすばやく岩場を跳ねて、川を渡ってこようとした。
ぼくは、悲鳴を上げて逃げ出した。
河原の向こうは、一面のすすき野だ。隠れる場所はどこにもない。
ぼくは、必死で逃げた。
逃げながら、ミッちゃんとマーくんがどうして死んだかわかった気がした。
夢の中で、ヌルに襲われたんだ。
ヌルのうなり声が、すぐ後ろで聞こえた。
ぼくは、訳のわからない叫び声を上げつづけた。
背中に強く体当たりされて、どっと倒れた。
もう、声もでない。
身を起こそうとしても、ヌルのがっちりした前足が、ぼくの両肩を押さえ込んでいた。
いつのまにかレイくんも側に来ていた。
「この子もきっとおいしいよ、ヌル」
レイくんは楽しげだった。
「いただこうか」
ヌルは大きく口を開け、ぼくの首もとに牙を突き立てた。
ぼくは、長い悲鳴を上げて目を醒ました。
「ヒデ、ヒデ!」
母さんが、ぼくをしっかりと抱きしめていた。
「大丈夫? しっかりして」
ぼくは大きく息をしながらあたりを見まわした。
ぼくの部屋だ。
あいつらはいない。
ぼくは、自分の首に手を伸ばした。びっしょりと汗をかいていた。
鈍い、しびれのようなものが残っていたけれど、傷のようなものはない。
「すごく怖い夢だったのね」
母さんが言った。
「うん」
ぼくは、やっとうなずいた。
「怖かった」
正直ぼくにはわからなかった。
本当に、ヌルとレイくんがぼくの夢に入り込んで来たのか。
ミッちゃんとマーくんは、あのままヌルに喰われたから死んでしまったのだろうか。
それとも、ぼくの不安が創りだした、ただの夢なのだろうか。
†
母さんが、気分転換に街へ出かけようと言い出した。
「この夏休みは、どこにも遊びに行かなかったものね」
そう、夏休みももうじき終わるのだ。
気がつけば、吹きすぎる風は涼やかな秋の気配をはらんでいる。空は高く、澄んでいた。
ぼくは、家の前で母さんが車を出してくるのを待っていた。
一台の車がゆっくりと近づいてきてぼくの前で止まった。
母さんのものではない。
黒い車で、助手席にレイくんが乗っていた。
運転しているのはお兄さんだ。
夢で見たのと同じ顔の。
レイくんは、窓を開けてぼくを見た。
およそ子供らしくない皮肉っぽい笑みを浮かべて、ひとこと言った。
「うそつき」
窓はぴしゃりと閉じ、車は速度を上げて走り去った。
貸別荘を引き払ったのだろう。
ぼくは、ぼんやり考えた。
こんどは、どこに行くつもりなのか。
昨日の夢が、ただの夢でないことがはっきりした。
あいつらは、名前を知った子供の魂を喰って生きているのだ。
ぼくは、うそをついたわけじゃない。
言い出しにくかっただけだ。
みんなには、学校が始まったら話そうと思っていた。ずっと別居していた両親が、夏休み前に離婚したこと。
ぼくは酒井と名のったが、本当は母方の姓に変わっている。
あいつらは、ぼくの名前を完全に捕らえることができなかった。
だから、ぼくは逃げ出すことができたのだ。
ぼくは、深く息を吐き出した。
どこかで、ツクツクボウシが鳴きはじめた。
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