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9F こだわり趣味の街 工芸 フロア
「ほう。これは凄いなぁ」
工芸がお好きな年配男性が、興味津津に見ていたのは、週替りの職人長屋のお店でした。
出店していたのは、手作り木彫りのはんこ屋さん。
りんごや桜などの枝を使った手作り感のあるはんこを男性は熱心に眺めています。
「一本一本、手作りです。節を生かした枝を使ったりします」
はんこ屋さんの若い男性職人が、年配男性に話しかけました。
「そう、この節がいいね」
「持った時に、節に指がかかるので、押印しやすいんですよ」
「僕、最近定年退職しましてね。絵手紙始めたんですよ。まぁ、出す人もいないから、専ら亡くなった妻に向けて書いているのですがね。それで落款が欲しくて」
静かに話す年配男性。
「僕のところにも、絵手紙やっている人から落款が欲しいとよく連絡を貰いますよ。皆さまそれぞれですが、多いのは名前の一文字ですね。例えば美枝子だとしたら、『み』とか『美』とか」
「名前の一文字か。僕も彫って貰おうかな」
「ありがとうございます。何て彫りますか?」
年配男性は少し考えてから、答えました。
「そうだなぁ、亘だから亘と、わ、両方欲しいな」
「かしこまりました。ここにある枝でご希望の物はありますか?なければ、お店の方で選んで、送ります」
曲がったもの、真っ直ぐなもの。
節くれ立ったもの、滑らかなもの。
印の周りに、よつ葉のクローバーなど絵が施してあるもの。
年配男性は真剣に選びます。
たくさんの枝の中から2本の枝を選んで、嬉しそうにはんこ職人に渡しました。
「こっちの真っ直ぐで、クローバーの絵が描いてあるやつを漢字で『亘』にしてください。こちらのふしくれだった方は平仮名で『わ』」
はんこ職人は年配男性から丁寧に、二本の枝を受け取りました。
「仕上がりまで15分くらいかかりますが、お待ち頂けますか?」
年配男性は、頷きました。
早く家に持って帰りたくなったからです。
きっかり15分後、年配男性ははんこ職人の所に戻りました。
はんこが二本、出来上がっています。
かっちりではなく、可愛らしい曲線の文字に、年配男性は笑顔を浮かべて、言いました。
「これは可愛いね。お礼にこの印を押した絵手紙、あなたのお店に送ってもいいですか?」
はんこ職人も笑顔で返します。
「嬉しいです。はんこと一緒に名刺……と言っても手書きの遊び程度のものですが、入れさせて頂きますね」
嬉しい約束ができました。
年配男性ははんこ職人から落款を受け取ると、いそいそと帰ってゆきました。
お家に帰って、はんこ職人さんにお礼の絵手紙を書こうと思ったようです。
はんこ職人さんのカシノキデパートへの出店は今日まで。
きっと絵手紙が届く頃には、お店に戻っていることでしょう。
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