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1章(1)
ご主人で間違いありませんか、と尋ねてくる警察官の顔はひどく沈んでいた。まるで自分が家族を亡くしたような沈痛な表情をして、こちらを見ている。
ぎこちなく顔を動かし、そこに安置された遺体を見る。七年間、見続けてきた夫の顔。頭には包帯が巻かれ、ぱっちりとした二重の目は固く閉じられている。青白い顔にまばらに生えた顎髭が、やけに滑稽に見えた。
どこからどう見ても夫の名村一幸で間違いない。三十五歳。まさかこんなに若くして死ぬとは、本人も予想していなかっただろう。
「間違いありません。私の、夫です」
どこまでもひんやりとした安置室に、自分の強張った声が反響する。
涙は一滴も出なかった。夫を亡くし、遺体を前にして泣かずにいられる妻がどれだけ存在するだろう?
心を満たすのは悲しみではない。わずかな空虚と、やっと解放されるという安堵感。
安置室のドアが細く開けられ、女性の警察官が隙間から顔を覗かせる。
「名村さん。お迎えの方が来ていますよ」
一緒に遺体確認をした警察官とともに安置室を出て、女性警察官の先導で長い廊下を歩く。女性の警察官は、前を歩きながらこれから検視があること、場合によっては司法解剖をするため遺体の返還が遅くなることなどを慎重な口ぶりで話した。
もう、なんでもよかった。夫がこの世にいない。その事実だけあれば十分だ。
廊下の壁に身を預けて、ぼんやりと宙を見つめている人影が目に入る。長身をオーダーメイドのスーツで包み、小ぶりなピアスがいくつも耳に光っている。癖のある黒髪はゆるく整えられ、すべてが完璧に彼という人間を体現していた。
彼はこちらに気づくと、この場には不釣り合いな、猫のような笑みを見せる。
「ね、俺の言った通りでしょ?」
一歩近づくごとに、ずくりと心臓が疼く。自分の一挙手一投足すべてを、彼に監視されている感覚に陥る。
彼の大きな手のひらがするりと回り込んできて、肩を抱いた。
「これからは、俺がずっと守ってあげる」
◇ ◇ ◇
九月に入ったというのに、残暑が厳しい。夕方になっても昼間の熱は去らず、アスファルトから熱気が立ち上っている。
パート先のカフェからの帰宅中、名村晴の足取りは重かった。休憩時間に、夫の一幸が半休で早く家に帰っているというメッセージを見てしまったからだ。
家に帰ると夫がいる。たったそれだけのことなのに、晴の心はどんよりと重く、夫のことを考えるだけで耐え難いほどの息苦しさに襲われる。
一幸が変わってしまったのは、結婚した直後のことだった。当時の晴は大学を卒業したばかりで、新卒で広告会社に入社することも決まっていた。キラキラの結婚指輪を付けて、公私ともに充実した日々を送れるはずだと想像したくらいだ。
『俺が稼いでるんだから、晴は働かなくていいよ。妻の仕事は家にいて、完璧に夫の世話をすることなんだから』
思えば、あの時にはっきり言うべきだったのだ。私は外で働きたい、あなたのほうが年上で人生経験もあるかもしれないけれど、対等な存在でいたいと。
結婚自体、若気の至りだったのだろうか。いつしか晴は、八歳年上の夫の言いなりになっていた。俺のほうが社会人としての経験が長い。俺のほうが稼いでいる。そう言われてしまえば、なにも言い返せなかった。
徒歩十五分の道は、考えごとをして歩くには短すぎた。なるべく家に着く時間を遅らせようとゆっくり歩いてきたはずだが、この距離ならせいぜい五分稼げたかどうかだろう。
マンション入り口のオートロックを解除して、エントランスでエレベーターに乗り込み、十二階のボタンを押す。
夫の稼ぎで買ったマンション。夫の稼ぎで買ったワンピース。そしてこれから夫の稼ぎで買った食材で、夫のために料理をする。
『晴は俺がいないとだめだから』
夫の言葉が、呪いのように耳にこびりついている。
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