1章(1)

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「すぐ近くで働いてるのに、なんでこんなに帰りが遅いんだ?」  一幸(かずゆき)から発せられた第一声は、(はる)の心をさらに重苦しくさせるのに十分だった。遅いといっても、パート先のカフェを出てからまだ一時間も経っていない。 「ごめんなさい」と、か細く呟くと、一幸は盛大なため息を吐いた。 「謝るのは後でいいから、先に夕飯の支度をしろよ」  そう言う一幸はソファーに腰掛けてビジネス書をめくったまま、動こうとしない。  朝干したままの洗濯物。スーツも脱ぎ捨てられて、ソファーの背にかけられている。  キッチンのシンクに投げ出された弁当箱を開けると、ほとんど手つかずのおかずたちが出てきた。きっと、部下に誘われてランチでも行ったのだろう。週に何度もこういうことがあるのに、一幸は毎朝弁当を作ることを強要する。  晴は一幸と会話をするのを避けるように、黙々と溜まった家事をこなした。  パートで働いているからといって、家事をおろそかにすることはできない。家に閉じこもってばかりの自分に嫌気が差して、自分から一幸にパートでもいいから外で働かせてほしいと頼み込んだのだ。  一幸は家事をおろそかにしないこと、扶養を超えないことを条件に外で働くことを許してくれた。  心を殺して、味のしない夕食を黙って口に運ぶ。砂でも噛んでいるのかと思うほど、どんなに噛んでも飲み込むことができない。目の前に座った一幸が「味が薄い」だとか「お袋が孫の話をする」だとかなんとか言っているが、どれも晴の耳をすり抜けて頭には残らない。 「おい、聞いてんのか」  険しい声で問われて、晴は一瞬で意識を食卓に引き戻した。 「ご、ごめんなさい。考えごとしていて……」  一幸が箸を持ったまま、整った顔を歪める。 「あのさ、こんなこと言いたくないけど旦那の言ってることもちゃんと聞けないほどの考えごとってなに? 俺はお前のためにわざわざ時間割いて話してるんだけど?」  茶碗を持った手が震えていることを悟られないように、そっとテーブルに茶碗を置く。キンと高い耳鳴りがして、一瞬だけ一幸の声が遠くなる。  一度、スイッチの入った一幸を止められる人間はいない。彼の気の済むまで、晴はここでうなだれて説教を聞き入れなければならない。  箸を置き、一幸に向かって頭を下げる。 「ごめんなさい、私が悪かったわ……だから、私にも分かるように、もう一度話してもらえませんか?」 「下手に出れば、これ以上怒られなくて済むと思ってんだろ?」  一幸の気が済むまで謝って、頭を下げてやり過ごそうとしていたことは事実である。謝って、悪くないのに自分の非を認めて頭を下げない限り、解放してもらえないからだ。  冷や汗が背中を伝う。言い訳もできずに頭を下げ続け、重すぎる沈黙を背負う。  ふっと、一幸が息を吐く音がした。ガチャンと大きな音がして、テーブルの上を箸が転がる。 「どうせ言っても無駄だからな。お前のせいで食欲なくなったから、酒とつまみ買ってこいよ。今日はそれで許してやる」  晴は弾かれたように立ち上がった。また機嫌を損ねる前に、早くしないと。  財布など最低限必要なものだけ手にして、裸足にサンダルを突っかける。玄関のドアを閉める時、一幸のせせら笑う声が聞こえた気がした。
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