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 世界が揺れているのか、自分が揺れているのか分からなかった。  ただ、その揺れに気付いた時、俺は自分がどこの誰だか分からない、ということに気が付いた。 「……?」  立ち止まり、なんとなく足元を見下ろした。地面はもう揺れていない。  次は、忙しなく歩いている周りの人間を眺めた。俺以外は誰も立ち止まっていなかったので、どうやら揺れていたのは俺自身だったらしい。  ここは、どこだ? 俺はいったい誰なんだ?  何も思い出せない。何も分からない。  どうしよう。交番に駆け込んで『俺は誰ですか』なんて聞こうものなら、すぐに救急車を呼ばれて精神病院にブチ込まれるだろう。それは絶対にごめんだ。  全身を弄って、着ていたパーカーのポケットやデニムのポケットを漁ってみたけど、身分証明になるようなものは一つも持っていなかった。  あったのは小さな革製の小銭入れだけで、中身は500ミリリットルのペットボトルが数本買える程度の金額しかない。  俺が立っているのはどうやら繁華街の中らしい。向こうから歩いてきたサラリーマンが、動かない俺のことを邪魔だと言わんばかりに激しく舌打ちして、肩スレスレのところを通り過ぎた。  多車線の道路にはバスやタクシーが何台も行き来し、道路沿いには大小のビルや飲食店が乱立している。  すると、俺の後ろから歩いてきた女子高生の楽しそうな会話がふと耳に入ってきた。   「ねえ知ってる? ここの路地のつきあたりにある占い屋、めっちゃ当たるらしいよぉ」 「ほんと?行ってみよ~!!」 「……占い……」  何故、自分がその会話に反応したのかは分からない。ただ『占い』という単語を聞いて、何かを思い出せそうな気がしたのだ。  ――思い出せなかったけど。  さて、俺はいったい何者なんだろう。最初の疑問に立ち戻った。  その時だ。 「アユムッ!」    俺を呼んだのではないかもしれない。しかし、後方から必死に誰かの名前を叫ぶ野太い声が聞こえたら、野次馬根性でつい振り返ってしまうのが人間というものではないだろうか。  なので当然、俺以外の周りの人間も同時に振り向いていた。 「ああ、アユム! 良かった、ここに居たんだな!!」  雑踏の中から、髪を振り乱してえらく草臥れた格好のオッサン――一応スーツを着ているものの、ちゃんとした大人には見えない――が真っ直ぐに俺の方へ走り寄って来た。そして俺が驚きのあまり動けないのをいいことに、男はいきなり俺に抱擁した。 「!?」 「アユム、あの女とは何でもないんだ! 本当だよ! 俺は騙されたんだ、俺が愛してるのはお前だけなんだよ! 信じてくれ!」 「ちょ、おい! 離せよオッサン!!」  激しく取り乱している汚いオッサンに抱きつかれたのが気持ち悪くて、俺は思い切り男を突き飛ばした。こちとら記憶があろうとなかろうと、同性に抱きつかれて悦ぶ趣味はない。 「ア、アユム?」 「あ……」  しかし俺は突き飛ばしたあと、少し男に同情してしまった。  その男は、そこまでショックを受けるか? とこっちが心配になるくらい蒼褪めて、絶望的な顔をしていたからだ。 「あ、その」 「怒ってるんだな、アユム。俺のこと、忘れたふりなんかして……」 「――は?」 「アユムが怒るのは当然だよな。でも言い訳をさせてくれ! 頼むから出て行くなんて言わないでくれ! 気が済むまで殴っていいし、ずっと忘れたふりをしていても構わないから、だから!」 「お、おい……」  人目も憚らすみっともなく俺の足に縋りつく男を見て、周りがザワついている。当たり前だ、いま俺たちは痴情の縺れまくったゲイ同士にしか見えない。  俺は『お前なんか知るか!』と男を振り切って逃げ出したかったが、記憶がなくて行くアテもないし、奴は俺を『アユム』だと勘違いしている。  ならばせいぜい利用してやると思い、俺は男に言った。 「おい、とりあえず帰る……ぞ。恥ずかしいんだよ」 「アユム、許してくれるのか!?」 「ああもう、許す! 許すから……あ、いや、要話し合いだな」  男に何かをされた覚えは全くないが――しいて言えば、今公衆の面前で恥をかかされていることくらいだ――簡単に許してしまってはふんだくれるものもふんだくれない。  そうして自分が何者かも分からない俺は、男の家に上り込むことにまんまと成功したのだった。
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