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 男の住まいは、繁華街の裏にある寂れたマンションの一室だった。表札に『木之元』と出ていたので俺は難なく男の名前を知ることができた。  あくまで『忘れた振り』なので、どうやって奴の名前を探ろうかと考えていたのだ。  男──木之元は俺が立ち去らないように強く念押しをして、シャワーを浴びに行った。なのでいきなり願っても無い、奴の身辺を探る機会が訪れた。  振りとはいえ、少しは情報が無いと病院送りにされてしまう可能性がある。それだけは避けたかった。  もっとも木之元のあの様子からして、俺──『アユム』を簡単に手放すようには思えないが、一応だ。  ソファに鞄が置いてあったので中を探った。スマホはロックが掛かっていて見れなかったが、名刺入れを見つけたので中身を確認する。 「〇〇会社営業部部長、木之元広隆(きのもとひろたか)……」  ガタンと音がしたので、俺は慌てて名刺を戻すと鞄を放り投げた。後ろを見たら、髭をあたってサッパリとした木之元がタオルを腰に巻いて立っていた。 「良かった、アユム……逃げてないな」  こざっぱりとした男は、さっきよりも幾分と若く見えた。オッサンと思っていたけど、意外とまだ若いのかもしれない。 「逃げないからちゃんと髪乾かしてこいよ、風邪引くぞ」 「うん。あとでアユムもシャワー浴びておいで」 「あー……うん。そうだな」  俺は『アユム』じゃないのでそう呼ばれるのは違和感しかないが、今は衣食住確保のために話を合わせておくしかない。  俺は木之元が髪を乾かして戻ってきたのと入れ替わりで脱衣所へ行った。備え付けの洗面鏡を見て、そこで初めて自分の姿を確認した。 「金髪の若造……けっこう綺麗な顔してるな。トシは二十歳くらい……か?」  自分の──というか『アユム』の顔をまじまじと見て、ひとりごとを零した。記憶喪失じゃなかったらただのナルシストだが、正直な感想だ。  とりあえず、今分かってることは俺は『アユム』という若造の身体で、木之元という男の多分──恋人。 一緒に暮らしていて、けど奴は浮気を勘違い(?)されるヘマをおかし、アユムはここから逃げだしたというわけだ。  でも俺は自分がアユムではないと知っている。ゲイじゃないし、感覚としてはいきなり見ず知らずの誰かに成り代わってしまった……というのが正しい。  なんだそれ、SFか。元の俺はいったいどこのどいつなのか……ちっとも思い出せない。 「アユム……何してるんだ?大丈夫か?」 「あ、ああ、うん」  なかなか水音が聞こえないので様子を見に来たらしい。あの男、『アユム』に執着しているというか、過保護すぎやしないか?  まあ結構歳の差もありそうだし、こんな綺麗な男の子が金も優しさもない男をわざわざ選ぶ必要はない……か。  とりあえず心配そうな木之元の視線がうっとおしいので、俺はさっさと服を脱いで浴室に入った。 シャワーで適当に全身を洗って浴室を出たら、タオルと下着と服が用意してあって、探す手間が省けてホッとした。
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