26.家族

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26.家族

 やたらクリスマスを前面にアピールする新宿界隈の喧騒から脱出し、逸彦と多岐絵は銀座にある高級ホテルのレストランを訪れていた。  多岐絵の誕生日と、結婚一周年を祝うため、逸彦は万難を排して休みを確保したのである。だが、多岐絵の酒は余り進まず、料理も少し無理をして食べているような様子だった。これはチョイスを間違えたかと何とか多岐絵の真意を探ろうとするのだが、捜査一課随一の観察眼を持ってしても、妻の心の内はそうは掴めるものではなかった。  食後のデザートの折に出してもらったコーヒーも、多岐絵は飲みきることができなかった。 「大丈夫? 胃でも調子悪い? 」 「そうじゃないと思うんだけど……」 「ま、多岐絵も秋口はメッチャ忙しかったもんな」  文化祭シーズンは、多岐絵のような合唱伴奏者は昭和の紅白出場歌手並みに忙しくなる。昼間は隣り合う自治体の合唱祭を梯子し、夜には翌週に本番を控えた別の合唱団のリハーサル、といった具合だ。12月になればかえって落ち着き、大学の講義さえ終わってしまえば、早めの冬休みに入れる。 「SEGRETO、一杯だけ煽って早めに帰ろ」 「そうね。マスターにも会いたいし」  行く気満々の逸彦に押されるように、多岐絵は頷いた。  中央通りもしっかりクリスマスムードだが、デパートが閉店すると、通りの飾り付けなどは大人しいものだ。 「銀座も久しぶりだなぁ」 「ここのところは専ら新宿だったもんね」  二人の足は、何も言わずとも『SEGRETO』に向いていた。元警視が営むバーで、落ち着いた雰囲気と、OBならではの秘密厳守とがウリといえばウリである。ここなら同業者とうっかり事件の話をしても、外へ漏れる心配はない。第一カウンターからフロアを見渡せる程度の広さなので、毛色の違う人間の存在も、怪しい動きをする人間の存在も、即座に炙り出すことができるのだ。故に、雑誌記者もここは鬼門と見えてまず寄り付かない。 「これはこれは、お揃いで」  壮年のマスターは、お祝いオーラを纏う夫婦を笑顔で出迎えた。  そしてカウンターにはもう一組、夫婦を迎えるカップルがいた。 「何だよ、またおまえかよっ」 「うるっせぇな、こっちが先に来てんだよっ」  言わずと知れた、ド腐れ縁の霧生久紀と弟の光樹である。  今日の光樹はツイードのジャケットを羽織り、男らしい姿をしていた。 「タッキー、久しぶり」 「ミッキー、相変わらず美人ね」  二人は外国人のようなハグをしてチークキスを交わした。そしてさっさと二人だけでテーブル席に移っていってしまった。 「ほんっと、ウザい、おまえ」  夫婦の時間を邪魔された逸彦が、おしぼりを弄びながら悪態を吐いた。 「こっちのセリフだ、馬鹿野郎」  と言いながら、久紀は逸彦用にチョコレートをオーダーした。マスターは既に、逸彦の好きなスコッチをカウンターに置き、久紀にも新しい氷入りのグラスを用意してバーボンを注いだ。 「一周年、おめでとう。あ、タッキー、お誕生日おめでとう! 」  久紀は逸彦に、そして多岐絵にと、グラスを掲げた。多岐絵が水の入ったグラスでそれに応じた。 「水? タッキー、飲めないのか」 「ああ、胃の調子悪いみたいで、食事もあんまり進まなかったんだよなぁ」  本気で首をかしげる逸彦をよそに、久紀とマスターが顔を見合わせた。 「おまえそれさ……」  と言いかけた時、多岐絵が口を押さえてトイレに駆け込んでいった。 「え、どしたの」  逸彦が狼狽すると、光樹がさっと席を立った。 「チーズの匂い嗅いだ途端……俺が見てくるよ」  多岐絵を追いかけるように光樹もトイレに駆け込んでいった。 「ねぇ……ねぇってば、大丈夫? 」  トイレの扉の前でウロウロしていると、中から苦しそうな多岐絵の唸り声が聞こえてくる。そんな逸彦を見ながら、久紀はニヤニヤと笑っていた。 「あいつ、ああいうとこ、鈍いんスよ」 「霧生さんが女性の変化に鋭過ぎるのでは」 「まぁ……昔は年上の女とばっかり付き合ってたんで」  と言いながら、久紀はさっさとタクシーの手配を始めていた。  やがてトイレから出てきた多岐絵は、光樹に支えられて何とかテーブルに腰掛けた。 「おめでとう、タッキー」  肩を摩りながら告げる光樹の言葉に、逸彦が息を止めるほどに驚いた。 「え……」 「もう、本当に鈍いなぁ逸彦はぁ。オメデタだよ、これ。レストランで酒飲ましただろ、一緒にいて何で気付かないかなぁ、しっかりしなよもう」  正にボケ旦那面目躍如とばかりに呆然とする逸彦に、光樹は相手が年上にも関わらずズケズケと言い募った。 「逸彦、タクシー、あと10分したら来るから、もう帰って休ませてやれよ」  パタリと、逸彦が多岐絵の前に膝をついた。 「マジ……」 「待って、逸ちゃん、きちんと検査薬で調べて病院行ってからじゃないと」  と言いながらも、多岐絵の顔はもう確信している。  鼻水と涙でぐしょぐしょになりながら、逸彦は多岐絵を抱きしめた。    警部・深海逸彦 vol.4 了
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