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15.連鎖
逸彦、そして達哉と祖母である紀藤佳代子は、紅葉が終わりかけている庭に面したテラスのテーブルセットに腰を下ろした。駐車場を囲む木々の隙間から、塩沢湖の湖面が見えた。夕闇に染まり、幻想的でさえある。
「この時間が好きなんですよ、私」
逸彦が警察手帳を示して同席を願っても、紀藤佳代子は全く動揺をしなかった。余程度胸が座っているのか、諦観しているのか、少しわからなくなっているのか……だが、達哉を見つめる目は慈愛に満ちていた。
「ここを買ってくれたのは、この子なんです。刑事さん、少しお話を聞いてくださいますか」
「ええ、そのつもりです。けど、長くなるようでしたら中に入りましょう。体を冷やすといけない」
「あなたも……優しいのね。この子も、本当に優しくて良い子なんですよ」
スタッフが、気を利かせて佳代子の上着と毛布、それと紅茶を三つ持ってきてくれた。湯気が立つカップを両手で抱き、逸彦は手先を温めた。
「この子は、生まれるとすぐ丸川のお母様に取り上げられてしまって……世間知らずの花代が心許なかったんでしょう……お手元で英才教育を施してくださったのは良いのですが、生まれてからの大切な5年余り、親子は引き離されてしまって……結花が生まれた時、花代は頑として離さなかったんです。暫くして丸川のお母様が亡くなっても、あちらの家風に染まった達哉を受け入れられず、花代はあからさまにこの子を虐げたんです」
佳代子が一口、紅茶を口にした。
「この子に申し訳なくて。それで、主人も亡くして一人でいた私が、達哉を時折預かるようになっておりました」
花代の態度を見れば、結花しか眼中にないのは明らかであった。
「……祖母が助けてくれなかったら、私は何度死んでたかしれない」
「死ぬ……それは、妹さんが理由で? 」
達哉がちらりと佳代子を見た。話しなさい、という風に、佳代子は優しく達哉に頷いた。
「……母は、私には学費は出さないなどと言いながら、結花には小学校から自分の母校である私立に入れようとしていた。バカだから行けませんでしたけど……ピアノにバレエに英会話に塾、送迎のついでに買い物して二人で外食。父の安月給じゃ、それだけでパンクする」
安月給で悪かったな……毒づきたくなる気持ちを抑え、逸彦は促した。
「憎かった? 妹さんとお母さんが」
「ええ、猛烈に……冷蔵庫にね、何もないんですよ……腹を空かせて父に電話すると、父は仕事中だと舌打ちをしたんです。父も母も菓子パン一つ、買ってはくれませんでした……思い余って祖母に相談したら、母に知られないように銀行に口座を作って送金してくれました……親も妹も、憎かった」
「で、自分の同級生に妹さんを乱暴させた? 」
「あいつが、言ったんですか」
「ええ、あれから一種のPTSDのように異性関係が荒れていったようですが、あなたを責めてはいませんでしたよ。むしろ、自分があなたの足を引っ張ってばかりだったと」
「そうですか……高校生の時、地元のカラオケボックスに、同級生達が溜まっているところに、中学生だった妹を呼び出して……」
「そう仕向けた」
「なるべくして、なった、といいますか……」
「それを未必の故意と言うんだろ。K大出のインテリなら、誤魔化すな。妹を傷つける気持ちがあって、やったことだろう」
達哉は俯いた。
言わばこの出来事が全ての発火点だ。そしてそれを猛火にしてしまった罪が、この男には山ほどある。
スマホのバイブレーションに気づいた逸彦が、そっと膝の上に目を落として画面を確認した。
「あなたをあの現場まで乗せたタクシー、見つかりました」
左手で持ち上げていた紅茶のティーカップを、達哉は取り落すようにガチャンとソーサーに置いた。
「瀬古との通話記録も手に入れました。直接繋がっていたんですね。何より、丸川家で左利きなのは、あなただけだ」
銀行で初めて会った時の嗅覚に従って、逸彦は達哉の身上のあらゆる洗い出しを安居に提案していた。年下の前任者に言われたら癪に障るだろうに、安居は快く引き受けていてくれたのだ。
逸彦はタブレットを取り出し、ある画像を見せた。
「これ、瀬古が殺された日のランチタイム。昼日中にこんな場末に身なりの良いリーマンが乗りつけたら、そりゃ目立ちますって。運転手さん、よく覚えていたそうです」
画面の中、タクシーから降りてきたのは、スーツ姿の達哉である。
咄嗟にホテルの角で身を屈め、結花がフラフラと危い足取りで立ち去るのを待ってからホテルに入って行く後ろ姿まで、しっかり記録されていた。
「一応、歩行姿勢認証かけてますから、言い逃れはナシで。結花と鉢合わせしないようにやり過ごしてから、瀬古の部屋に入りましたね。映像の記録では12時25分、まぁ、死亡推定時刻の範囲です。で、揉めた? 」
「二つ目のダミー会社の名義を黙って変えていたのがバレて。ついでにラリってる妹を回収しろと呼び出され……でも、部屋に入った時、奴はベッドの上で眠ってて……結花のヤツ、こんな男の相手までしたのかと」
「で、妹さんの仕業に見せかけるように、シャワー室を濡らして、アメニティを一つ、持ち出した」
佳代子に遠慮し、アメニティと言った。
「すぐ捨てました。コンドームなんて気持ち悪いんで」
折角オブラートに包んだ言い方が台無しだが、皮肉にもこの証言は間違いのない自供にもなる。
何しろ犯人しか知り得ないことなのだから……。
「残念ながら、瀬古は妹さんの相手ではない。瀬古は、ゲイだそうです」
「え……」
「無駄な工作でした。しかもフロントのカメラ、弄りましたよね。警察の組織力、甘く見ない方が良い。お父さんに教わりませんでした?」
「あ、いや、その……」
「無駄な足掻きが多いんですよ。覚悟の足りない小心な犯人に良く見られる行動です」
と、逸彦の背後に、稲田があと2人、スーツ姿の刑事を連れて到着した。
「すみません、遅くなりまして。2人は、新宿東署の北野と、警視庁捜査二課の寄居です」
捜査二課、その言葉に佳代子が反応した。
「達哉、あなた……」
達哉はぐっと唇を噛み締めて俯き、膝を両手で掴んだ。
「瀬古のダミー会社の登記、融資……そのほかに脱税のために作ったダミー会社がもう一つありますね。そちらはお祖母様、紀藤さんの名義だ」
「どういうことなの、達哉……」
「そちらの件は、二課の寄居が話を聞かせていただきますので」
達哉が、ポロポロと膝の上の拳に涙を落とした。
「ヤクザの汚い金だけど……たった一人の味方でいてくれたおばあちゃんに、ここでずっと暮らせるだけのお金を残したかった……結花のことで脅迫された父さんに、結花を壊したのはお前だからと責められるがまま口座を作って、瀬古のダミー会社への融資までさせられて……どうせ監査がもう気付いてる」
「ええ、まぁ。既に捜査二課も動いていますしね」
「達哉……花代のせいです、私はあの子が許せない! 」
佳代子は立ち上がり、肩を震わせる孫を抱きしめた。
「父親のせいで、母親のせいで、そして妹のせいで……この子はずっと我慢してきて、でも精一杯頑張ってきたんです。この子が悪いんじゃない、全部、あの丸川の家が悪い。この子はいい子なんです!! 」
たった一人でも、そう言って庇ってくれる人がいるではないか……とはいえ、この人もまた、自分を省みることはない。
誰もが人の所為にしてばかりで、自分で何かを変えようとはしなかったのだ……逸彦はやりきれない気持ちのまま、二人に背を向けた。
「稲田さん、フダは」
「安居係長から預かっています」
殺人容疑の逮捕状、それを稲田から受け取り、逸彦は事務的にそう言い放つと、達哉の両手首に手錠をかけた。
「分かれ道は沢山あった筈だ。結局、決断したのはあなた自身だ」
連行される孫に縋る佳代子が、憎しみを込めた目を逸彦に向けた。
そんな目を向けられるのは、一度や二度じゃない。
大したことではない……。
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