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18.栄養補給
多岐絵は既に寝床に入っていた。
むにゃむにゃと眠そうに答える多岐絵の声に慌てて時間を見ると、既に深夜0時を超えていた。
「ごめん、掛け直すよ」
「待って、切っちゃダメ」
切ろうとした逸彦を、存外にしっかりとした多岐絵の声が制した。
「……大変だったんでしょ。ちゃんと、食べてる? 」
逸彦は思わずその声が聞こえてくるスマホを抱きしめた。
『ちゃんと食べてる? 』
初めて会ったのは、爆破予告が出ているパーティー会場であった。結果としては、主役の大企業令嬢がこっぴどく振った男が犯人だったのだが、多岐絵はそのパーティーでピアノの生演奏を担当していたのだった。
パニックになって逃げ惑う客に突き飛ばされた小さな子供を、多岐絵は抱き起こして優しく宥めていた。その姿が美しくて、逸彦は思わず避難誘導をする手を止めてしまったのだ。
事件が解決し、避難していた人だかりの中に多岐絵を見つけ、逸彦は礼を言った。
「そんなこと……それより刑事さん、ちゃんと食べてます? ひどい顔色」
初対面の駆け出しの刑事に、多岐絵はそんな言葉をかけてくれた。両親を亡くしてから、自分の体を気遣う言葉など何年も掛けてもらったことのなかった逸彦は、それだけで泣きそうになったことを覚えている。
ああ、こういう人となら、家族になってみたい、と。
「逸ちゃん、大丈夫? 」
「うん……ちょっとキツかった」
「そんなことだろうと思った」
「あのさぁ……子供なんだけどさ」
「うん」
「俺、ちゃんと育てられるかな……」
暫くの無音の後、プッと吹き出す多岐絵の声がした。
「やぁねぇ、そんなのわからないわよ。最初から立派な親なんて、いないでしょう。でも私達2人で修正して反省して話し合って、何よりうんと愛してさえあげたら、後は子供の方で何とかするわよ」
「こ、子供の方で? 」
「子供には生きる力が備わっている。それを信じて、自分の足で歩けるようにしてやるのが務めじゃないかな。猫っ可愛がりして手足を捥いでしまうのは、多分、違う気がする」
これまで何十人と子供達を教えてきたピアノ指導者としての意見は、経験に裏打ちされているだけに重い。よく、レッスンは腹を割ってのぶつかり稽古のようなものだと多岐絵は言っていた。全力でぶつかってきたからこそ、そんな言葉が出るのだろう。
「私たちも、一緒に育って行こうよ、ね、逸ちゃん」
「……うん」
「ご飯、ちゃんと食べるんだよ」
「うん」
「帰れるようになったら言ってね。好きなもの一杯作って待ってるから」
「多岐絵ぇぇ……」
愛してるって、何万回言えば済むだろう……ところが、名前を一回呼ぶだけで一杯一杯になってしまった。
「電話できたってことは、取り敢えず一山越えたってことかな。まだ天王山はこれからなんでしょ、頑張ってね」
「うん、頑張る。多岐絵も……」
プツッ……無情にも、そこでバッテリーは切れてしまった。
「あ、クソ……」
しかし、逸彦のメンタルバッテリーは、フル充電である。
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