2.面倒な奴

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2.面倒な奴

 深海逸彦(ふかみいつひこ)が、刑事総務課・法令指導第二係の係長として規則正しい生活を始めてから早7ヶ月目に差しかかろうとしていた。時は11月下旬、もう年末か……。  新宿駅に降り立ち、ハルク前の歩道橋の上からロータリーの巨大なクリスマスツリーを眺めた。  あと10日もすれば妻・多岐絵の誕生日だ。  ここ数年、クリスマスと兼ねるのも精一杯で、殆どまともに過ごせた試しがない。多岐絵も承知の助とばかりに、ピアノの仕事を目一杯詰め込んでしまう。今年こそゆっくり過ごそうとセーブしてもらっているのだが……捜査一課長が時々リハビリと称してあちこちの帳場に単品でヘルプに出すものだから、或る日突然忙しくなったりもするのだ。  今年の年末は勘弁して欲しいと泣いて頼んだが、こうして今日もこれから、新宿東署管内で起きた極道殺人事件の帳場に顔を出さなくてはならない。  明日を過ぎたら、また多岐絵は仕事をバンバン入れてしまうだろう。これ以上返事を待たせたら私のキャリアも信用も崩壊よと、昨晩ひどく怒らせてしまったのだ。  逸彦のブリーフケースの中には、ある暴力団の資料が入っていた。  歌舞伎町で多くの店のケツ持ちと称する後方支援という名の虎の威を決め込んでいた極道の金輪会(かなわかい)の資料だ。  金輪会は成子坂の成田組の枝で、歌舞伎町を暴力で傘下に収めている荒くれ共である。  ド腐れ縁の同期にして高校の同級生でもある、四谷署組対課課長の霧生(きりゅう)久紀(ひさき)からの情報では、ドラッグや女もやりたい放題で、何故か資金力もあるという。  その資金力は、若頭(カシラ)瀬古(せこ)(ひかる)という三十半ばの大卒のインテリで本家も一目置くほどの切れ者が、たった一人で支えている。クズで俗悪な極道でしかない会長・金井(かない)介二(かいじ)にどうしてあんな切れ者がついているのかと、マル暴界でも七不思議の一つに数える程なのだという。  その(くだん)のマル暴中のマル暴である霧生久紀が刑事になって初めて配属されたのがこの新宿東署の組対であり、直接手元に置いて厳しく指導したのが、今、逸彦の目の前にいる長身の壮年紳士・丸川達夫(まるかわたつお)であった。 「どうも、一別以来です」  逸彦は丸川達夫に慇懃に頭を下げた。かつて極道絡みの殺人事件で帳場が立った時、逸彦は捜一の刑事としてここの捜査本部に派遣された事があり、丸川と組んだ経緯があった。  マル暴特有のギラギラ感、はない。むしろ、最近流行りのイケオジとでも言おうか、洒落たピンクのストライプのワイシャツにグレーの仕立ての良いスーツを着こなし、アッシュグレイの短髪は整髪料でセットされている。六本木辺りにでもいそうな、都会のオヤジそのものであった。彼の階級は警部であり、この組対課の課長であるが、部下達はどれも、チンピラとヤクザと安ホストのような、歌舞伎町に紛れたら見分けがつかなくなりそうな様相である。 「相変わらず小綺麗ですね、丸川課長は」 「揶揄うなよ、抱かれたい男第二位が。と、結婚して暴落したんだよな」 「暴落って……」 「暇持て余して、腹に肉ついたんじゃないのか」  丸川は楽しそうに逸彦の腹の肉を摘んだ。こんなところも、久紀と雰囲気がよく似ていると思う。いや、薫陶を受けた久紀の方が、丸川に似ているのかもしれないが。 「殺されたのは、金輪会のチンピラですか? 」 「いや……若頭だ」 「え、マル害は瀬古(せこ)(ひかる)? 」  被害者は上納集めに汲々としている下っ端だと思い込んでいた逸彦は、意外な展開に暫し絶句した。 「それって、他の組と抗争始まったりしませんか」 「何とも言えんが……瀬古を殺られたら金輪会はすぐに困窮する。経済的な抗争、ってのも最近は十分にあり得る。霧生のヤツにも四谷管内の極道の動きに注視してもらってるが、ウチの管内では今の所、びっくりするほど静かだ」  丸川は逸彦を本部が置かれている道場に案内した。  だだっ広い道場に折り畳みの机が運び込まれ、ホワイトボードが何台か置かれている上座に、横一列にこの捜査本部の指揮官達が並んでいた。  副署長、管理官、刑事部長に簡単に挨拶を済ませ、逸彦はボードに張り出されている現場の写真、判明している情報を頭に叩き込んだ。 「あ、そうそう、過去の資料、一応持ってきました。金輪会が絡んだと思われるインサイダー取引や土地転がし……送致されたのは内容と釣り合いの取れないくらい頭の中が貧相な奴らばかりなので、まず黒幕は瀬古と見て間違いない案件ばかりです」  どさりと資料の束を管理官の鼻っ面に置くと、少し薄毛の目立つ40代中盤程の太った管理官が、まともに嫌な顔をした。 「深海くん、データにしてよデータに。これ、人数分コピーされたら経費がさぁ。どうせヤクザの内部抗争か何かなんだし」  こういう指揮官には往々にしてよく出会う。本部の捜査で何か一つ手がかりを得ると、『その線』一辺倒になって他の可能性や微細な違和感を意図的に排除しようとする手合いだ。  一課長は恐らく、この指揮官のそうした傾向を見抜いた上で、真っ向から『同調圧力無用』の逸彦をぶつけたのだ。恐るべき策士であり、適材適所の職人という他はない。 「それは別の人に言ってくださいよ。とにかく、お持ちしましたから」  ならば、一課長の思惑通りに自由にやらせてもらうまでとばかりにそれだけ言うと、逸彦は呼び止める丸川の声を無視して踵を返した。 「おい、深海」 「現場のラブホに行きます。臨場しているのは僕の元部下達ですから、勝手知ったる何とやらです」  歩きながらそれだけ言うと、逸彦は丸川を振り切るように署の入り口から夕闇の新宿の雑踏に駆けて行った。 「深海逸彦か……」  一切の忖度を介さないかと思えば、人の機微には敏感で、独特の嗅覚を持っている男。刑事臭くもなく、青味もあるくせにどこか達観しているところもある。冷めているかと思えば熱く、拘りがないかと思えばスッポンのようなしつこさも持っている。 「一課長も、一番面倒な奴をよこしやがって……」  丸川は舌打ちをし、加熱式たばこを口に咥えたのだった。  
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