21.夫婦

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21.夫婦

 今日の花代は、大人っぽい紺色のワンピースの上にグレーのチェスターコートを羽織っていた。フレアなシルエットは膝下までの長さがあり、彼女の腰の細さを強調する。仕立ても良いのだろう。ハリのあるウール素材のドレープは綺麗で、彼女が早足で歩を進めるたびに美しく波立つ。黒革のショートブーツとも相性が良く、正に今の姿は軽井沢の資産家令嬢と呼ぶに相応しい。60に手が届こうという年齢も、こうした服装だとかえって若々しく映え、品の良い大人の艶気が眩しいほどだ。  丸川達夫は、久々にみる妻の姿を、コンテナの陰からそっと見つめていた。  かつて、電車の中で痴漢をされながらも声を上げられずに縮こまっていたOLだった彼女が、妻となり、母となった。夢中になるでもなく、のぼせ上がったわけでもなかった。彼女自身の結婚願望の強さにも押されるがまま、結婚に至ったに過ぎない。  教育者であった達夫の母の暴走がきっかけで、花代は母として壊れた。壊れたまま、第二子の結花を産んだ。そう、子供を二人も作ったのだ。記憶にもないほどの回数しか愛し合わなかったのに、子供だけはできた。  母として、花代は凡そ及第点とは言えなかった。家のことはまあまあできたにしても、精神的に、危う過ぎたのだ。  あんなに脆い女に二人も子供を押し付け、自分は自ら家庭というものを作ることを放棄していた。ただでさえヤクザと神経を擦り減らすようなせめぎ合いをしているというのに、とても家族に気を向ける余力はなかったのだ。  つくづく、結婚してはいけない人間だったのだと思い知っていた。  ほんの微かな夢を見たが為に、妻が息子を壊し、息子が娘を壊した。壊れた娘は父を壊し、父は娘を壊した息子を脅迫して、やはり壊した。  自分と花代がこの世に産み落としたのは、人殺しとジャンキーだ。  そして、巡り巡ってその人殺しとジャンキーを庇う為に、結局自分は悪魔に魂を売って、刑事としての自分を壊したのだ。  家族を持って、何がしたかったのだ。  安らぎを求めたのか、休息を求めたのか……何一つ得られぬまま、自分はここまで堕ちたではないか……それなのに、こんな風に妻の姿を目で追うなど、往生際が悪すぎる……達夫は拳を握りしめた。 「達夫さん! 」  肩から重たそうに下げていたボストンバッグを地面に落とし、花代は一心不乱に走ってきて達夫の胸の中に飛び込んだ。  コンテナの陰に花代を引き寄せ、衝動のままに唇を貪った。 「あなた……」  バカな女だ。名門女子大を出ているというのに、男に免疫がなくて、世間知らずで、自分が何も知らないことに気付かない。そのくせ攻撃力は強くて、周りの人間を壊しまくる。  それなのに、自分をこんな境遇に落とした当の男に、こうも霰もなく全てを委ねてくるとは。  そう言いながらも、この女の唇を貪る自分は、何なのだ……。 「あと1時間もすれば、日本ともお別れだ」 「1時間……でしたら、ここで、抱いてください」  死をも覚悟したかのような表情で達夫を見上げ、花代はワンピースをたくし上げ、裾の中に達夫の手を引き込んだ。 「私があなたの妻で、女であったことを、今ここで思い出させて」 「何を言う、こんな時に」 「こんな時だから……奔放に男に身を任せる結花ちゃんが、羨ましかった。求められているあの子が妬ましかった。私はただの石ではありません、母は誰かを求めてはいけませんか。いつまでも女でいたらいけませんか」  達夫の両手が花代のスカートの中で逡巡した。随分と長い間、妻に触れていなかった。肉感は残酷に、過ぎ去った時間の長さを教えている。 「花代……俺は……」  と、花代の手が達夫の背中に回されたと思った次の瞬間、背中のホルダーに差してあったチーフスペシャルを、花代が抜き去った。 「おい」  達夫から数歩下がり、花代は震える手でチーフスペシャルの銃口を達夫に向けていた。 「やめろ。素人が扱えるものじゃない」 「そうやって、あなたは私をずっと、世間知らずの人形扱いしてきたのよ。子供達のことも全て私に丸投げで。達哉を取り上げられた時だって、あなたは何もしてくれなかった。あの義母、さんざん私を馬鹿にして……あの女より私の方が家柄だって学歴だって良いのよ、それなのに……。結花ちゃんはね、そんな私に神様がくれた宝物なの。さぁ、今すぐ私の結花ちゃんを返しなさい!! 」  事ここに至っても尚、結花から離れることができないのか……達夫は心底妻を憐れんだ。こんな狂った女と一時の迷いで結婚し、刑事という天職を穢してしまった己を憐れんだ。  もうすぐ、組織の車が迎えに現れる、その時にこんな事でゴタついては出航できないどころか、顔を見られたからにはと殺されかねない。 「つくづく足手まといな女だ」  達夫は安全装置の外し方を知らずに銃口を向ける花代にズカズカと近寄り、片手で銃を持つ手ごと捻りあげて取り上げ、突き飛ばした。きりきり舞いにスカートを翻し、花代が地面に転がった。その鼻先に、達夫は容赦無く銃口を向けた。既に逡巡する程の呵責も未練も失っていた。 「せめてもの詫びに連れて行こうと思ったが……自分のバカさ加減を呪え」    
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